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僕の読書メモ

札幌在住の25歳。読書とコーヒーと服が好きです。上手な文章を書けるようになりたいです。

渡辺優「自由なサメと人間たちの夢」(集英社)を読みました。

2月も終わりに近づいてきていますが、久しぶりの投稿です。

 

上橋菜穂子さんの「守り人」シリーズや和田竜さんの「村上海賊の娘」などの冊数の多いシリーズものを読んでおりまして、今更書くのもなぁと思いながらなんとなく更新が滞ってました。

 

さて、今回は渡辺優さんの「自由なサメと人間たちの夢」(集英社)を読みました。

 

 

自由なサメと人間たちの夢

自由なサメと人間たちの夢

 

 (以下Amazon 内容紹介より引用)

クズばっかりの世界に差し込む、ひとすじの光――。痛快な毒気をはらんだ物語センスが炸裂! 2015年に小説すばる新人賞を受賞した注目作家の、受賞後第一作。自殺未遂を繰り返す女が、入院先の病院で決意する最後の日の顛末とは?―「ラスト・デイ」。冴えない男が事故で手を切断。新型の義手で人生を一発逆転する力を手に入れ―「ロボット・アーム」。メンヘラ気味のキャバ嬢のたったひとつの生きがいは、サメを飼うことだった―「サメの話」。新感覚フィクション、怒涛の全7編。

 

渡辺優さんは、「ラメルノエリキサ」で第28回小説すばる新人賞を受賞した作家で、その受賞後第一作の短編集です。

実はまだ「ラメルノエリキサ」は読んでいないのですが(現在注文中です)、今後もこの作家の作品は買っていこうかな、と思えるような作品でした。

 

ラメルノエリキサ (集英社文芸単行本)

ラメルノエリキサ (集英社文芸単行本)

 

 

 

7つの短編は、自殺未遂、精神病棟、幻肢痛、義手、明晰夢、夢の中の絵、哲学的ゾンビ、いじめ、夢、サメ...。少しSFチックであったり、人に話すには少し後ろめたくなったりするようなキーワードがテーマで繰り広げられます。

 

ただ前に「伊藤計劃トリビュート2」でのぼくのりりっくのぼうよみなどで触れたような完全なるSF世界でのディストピアが描かれているといったようなものではありません。

 

masahirom0504.hatenablog.com

 

限りなく現実に近い世界で、死にたがりだったり何のために生きているのかわからないけどなんとなく働いていたりする割と一般的な主人公が、希望を見出してハッピーエンドとも死んでしまってバッドエンドともつかない物語がつづられている、そんな感じがします。

 

等身大のフィクション、っていうんでしょうか。

 

自分で小説をしたためておきながら、ハッピーエンドになるかどうかなんて知ったこっちゃないよ、そんなの小説の中の登場人物たちに聞いてみなよ、と言っているような文章にも主人公に対しても毒気をはらんだ文章や展開、突き放す優しさみたいなのがあるような気がしました。

 

僕が好きな漫画家の冬目景さんの作品「空中庭園の人々」の小説版といっても近いかもしれません。

 

冬目景作品集 空中庭園の人々 (バーズコミックス)
 

 

限りなく現実に近い世界で、非現実的な物語が淡々と浮かび上がっては消えていくような、こちらもそんな作品になっています。

 

おととしは深緑野分さんの「オーブランの少女」「戦場のコックたち」、昨年は一色さゆりさんの「神の値段」という新しい作品に出合いました。

2017年はまだ始まって2月ですが、この渡辺優さんの「自由なサメと人間たちの夢」2017年の中で一番好きな作品になりました。装丁を見て手に取ったというところもあって、素敵な出合いに感謝して、終わりにします。ではまた。

 

 

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【読書記録】2017年1月の読書数は31冊でした。

今日から2月です。

 

先月の読書数報告をば。

1月の読書冊数は31冊でした。

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小さいけれど表にするとこんな感じ。

 

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今月も忙しさはそこそこなので、読む余裕はありそう。

4月、5月は全く読めないと思うので、読み溜めしておかなくては。笑

 

 

ぼくのりりっくのぼうよみのSF小説"guilty"には彼の思想が詰まった短編小説だった。 - 「伊藤計劃トリビュート2」(早川書房)

先日、クラウドファンディングをもとに立ち上げたメディア "Noah's Ark" にて、落合陽一氏との対談記事を掲載したのが新しい、ぼくのりりっくのぼうよみ。 彼は、さまざまな媒体を通じて彼の新しい試みを発信し続けている。

 

masahirom0504.hatenablog.com

 

先日発売された「伊藤計劃トリビュート2」にて、 "guilty" という処女小説を寄稿している。(1st EP「ディストピア」にて"Water boarding"という短編小説が封入されているが、文学作品単独での販売は初)

 

伊藤計劃トリビュート2 (ハヤカワ文庫JA)

伊藤計劃トリビュート2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 (以下Amazon 内容紹介より引用)

1970年代カンボジアクメール・ルージュによる不条理な殺戮の地を論理で生き抜いた少年――第3回SFコンテスト受賞者・小川哲「ゲームの王国」300枚、電子書籍版が話題の草野原々「最後にして最初のアイドル」ほか、黒石迩守、柴田勝家、伏見完、ぼくのりりっくのぼうよみの、20代以下6作家による不世出の作家に捧げるアンソロジー第2弾!

【収録作品】
草野原々「最後にして最初のアイドル」
ぼくのりりっくのぼうよみ「guilty」
柴田勝家雲南省スー族におけるVR技術の使用例」
黒石迩守「くすんだ言語」
伏見完「あるいは呼吸する墓標」
小川哲「ゲームの王国」

 「伊藤計劃トリビュート2」は、伊藤氏のSFのコアであった、テクノロジーの発達と人間の変化を基軸として、伊藤氏の夭逝以降にデビューした若い世代のSF作家たちを世に送り出す短編作品集という形をとっている。

 カンボジア独立後のシハヌーク政権とクメール・ルージュポル・ポトの生きた波乱の時代が描かれている小川氏の「ゲームの王国」はテクノロジーの発展という感じがしなかったが、最後がto be continued...で終わっていたので、最終的にはテクノロジーと論理を駆使しているんじゃないかと思っている。なぜ、一部抜粋にしたのだ......。

 

 それはさておき、ぼくのりりっくのぼうよみは、自身が影響を受けた本として伊藤計劃氏の「虐殺器官」を挙げている。それもあって、この企画につながったのだと思う。ほかにジョージ・オーウェルの「一九八四年」や岸見一朗氏「アドラー心理学」をあげており、彼の音楽とも合わさって「テクノロジーの発展によるディストピアの形成と自由意志の欠落」みたいなところが彼の主題になっているような気がする。

www.cinra.net

 

話はそれるが、アメリカ大統領選挙でトランプ氏が当選してから、オーウェルの「一九八四年」が売れているらしい。トランプ氏の政策をディストピア政策であると感じた市民が、アメリカが全体主義国家となることを継承するために買っている、だとか。

 

"guilty" は17ページという短い小説であるが、彼の考えがつまったディストピア小説である。

次のような形で話が進む。

 

 

核戦争により放射能で世界は汚染され、国はシェルターの都市へと形を変えた。過去の言語や文明はすべて失われた。シェルター都市の一つ、ズーで暮らす過去文明の研究者ファーは、結婚間近だった。しかし彼女が物盗りに殺されてしまい幸福から叩き落されたファーは死ぬためにシェルターの外へ出て、荒野を歩くことにしたのであった。

荒野をさまよっていたファーは、かつての栄耀栄華な時代の建造物を見つける。その建造物の中で見つけたタブレット型の端末から崩壊した文明がファーの思考の、想像の範疇を超えるほど高度な文明であったことを知る。そして端末の中には、文明が崩壊した経緯さえも残されていた。

テクノロジーの発展により、人間の行動は無意識に「機械」に支配されるようになっていた。恋愛もその他の生活のすべても自由意志無き行為となった。その間も「機械」は世界の調和(ハーモニー)を目的として成長を続け、「機械」はその卓越した計算能力から世界が間もなくデッドエンドとなることを知る。絶望した「機械」は、post-truthな情報を蔓延させ、対立を煽動させた。小さな火種は火力を増し、戦争となった。世界はなくなり、満足した「機械」は活動をやめた。そして今に至る。

世界の破滅の要因が「機械」に制御された意志無き行動であると知ったファーは不快に感じた。意志ある生への執着、むき出しの感情。しかし同時に、そのnon-controlな意志こそが、彼女の命を奪ってしまったのだとも思った。悩んだファーは一枚の端末を持ち帰り、街の目につくところにその板を置いて観察することにするのであった。

 

 

 ぼくのりりっくのぼうよみは、現代のpost-truthな情報の波におぼれている私たち=自由意志のない哲学的ゾンビ(ここではネウロロジカルを指す)たちへ警鐘を鳴らすとともに、テクノロジーによる自由意志の制御はどのくらい認められるべきなのか自分でも測りかねているように感じた。

 

 

自由意志とは、理性のある人間が自己の判断(行為ではない)を統制できることを言う。すなわち、自分が行動するために決定した判断そのものが自己の判断によるものである、ともいえる。

 

ぼくはいつも、PS4のアクションRPGソフト「アンチャーテッド」の主人公ネイトは自由意志無きキャラクターだと思っている。ネイトはゲームの中の世界で、ジャンプしたり戦ったりと自由に行動をすることができる。しかし、その行動のもととなる判断はネイトは行わない。行えない。そうプログラムされているからである。ネイトは、シナリオライターによって描かれた世界の中で、あらかじめ定められた複数のチェックポイントを通過して定められたエンディングを迎えることしかできない。エンディングに反した意志はそもそも存在しないのである。ここでいう「機械」とはシナリオライターでありプログラマーでありプレイヤーである。

 

伊藤氏の著作にも「ハーモニー」があり、その後のSF小説では、人類の調和(ハーモニー)がテーマとされるケースが増えた。その結論はさまざまであるが、機械による制御、感情、理性、そして自由意志の制御が必要であるとされる場合が多い。現代の私たちは機械に直接制御されるということはないまでも、テクノロジーの発達により、情報の視野狭窄や排他性欠如により自由意志を制御されているような状態に陥っている。ハイデガーのいうダス・マンの状態のようなものかもしれない。

 

テクノロジーが発達して、これからも発達していく今だからこそ、

自分がここに存在する意味を考えて、「私は私づけるものは何か」を考えて、

死を迎えるまで生きていくのが大事なのである。

 

なんて、おもってみたりするのである。

話は、完全にそれてしまったけれども、わずか17p、されど17pという小説でした。

 

是非ご一読を。

 

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芥川賞受賞! 山下澄人著「しんせかい」に書かれた【先生】への思いを考える(書評)

 

こんにちは。

先日芥川賞直木賞の発表がありましたね。

 

今回は、第156回芥川賞を受賞された山下澄人さんの「しんせかい」を読みました。

 

しんせかい

しんせかい

 

 (以下Amazon 内容紹介より引用)

十代の終わり、遠く見知らぬ土地での、痛切でかけがえのない経験――。19歳の山下スミトは演劇塾で学ぶため、船に乗って北を目指す。辿り着いたその先は【谷】と呼ばれ、俳優や脚本家を目指す若者たちが自給自足の共同生活を営んでいた。苛酷な肉体労働、【先生】との軋轢、そして地元の女性と同期との間で揺れ動く思い。気鋭作家が自らの原点と初めて向き合い、記憶の痛みに貫かれながら綴った渾身作!

 

著者の山下さんは、「北の国から」「優しい時間」などで有名な倉本聰さんの主宰していた富良野塾の2期生として舞台俳優から脚本家、小説家となった方で、今回の「しんせかい」はまさにその【先生】=倉本聰さんの演劇塾のある【谷】=富良野塾で過ごした一年を映したような作品でした。

 

 山下さんのほかの作品は読んだことがありませんでしたが、いつもは実験的小説で話や場面展開が飛躍する読みづらさがあったが、本作品は今までのテイストとは違った読みやすさ、であるといったようなニュアンスの感想をよく拝見します。山下さん自身は今までの作品と何ら変わりないと認識していましたし、倉本さんはまだ読みづらいと言っていたらしいですが(笑)

 

富良野塾の話をもう少し。

 

 先日、富良野演劇工場にて、富良野塾のOBOGが主宰する富良野GROUPの公演「走る」を観劇してきました。倉本さんがかかわる富良野GROUP最後の脚本(演出、のほうが正確でしょうか)ということもあって、すごいにぎわいでした。倉本さんご本人もいらっしゃいました。

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 「走る」は、1997年の公演以来およそ20年ぶりの公演ということもあって、メッセージの根幹は変えず、ただし現代社会へとリアレンジした形での公演でした。僕が6歳の時ですね。The North Faceとコラボレーションした衣装を着た「人生」のマラソンランナーたちが1年を「走る」過程で様々なことが起き、学び、ゴールし(ゴールとは何か?)また走り出す......。他の作品(「谷は眠っていた」「ノクターン」「明日、悲別で」など)とは違って、感動するというよりはいろいろと考えさせられる作品でした。お客さんの笑い声や涙、拍手も舞台の一部だとして、男色や方言が笑いの種として扱われているようにとらえられてしまっていたのは残念でしたが。いや、しかし、ただただ舞台に引き込まれました。もう一度見たい。見たい。現在公演中ですので、興味のある方はお早めに。

www.kuramotoso.jp

 

さて、「しんせかい」の話に戻ります。

 

山下澄人さんのような山下スミトは、倉本さんのような【先生】が誰とも知らず、ただほかの同期のように明確な目標があったわけではなく、単身兵庫から富良野塾のような【谷】へいきます。そこで【先生】や1期生から様々なことを学び、地元の女性や同期の女性への恋心(まではいかないかもしれない)に揺れ動き、etc...などといった普通の青春体験よりはちょっとorかなり濃い青春を1年間味わいます。と要約するとこんな感じ。かなりさらっとしています。

 読み終わった時に、3つの疑問がわいてきました。①タイトルの「しんせかい」とはどういうことなのか、ということと、②最後の2行は?、③そして最後の最後の、2年目についてあっさり書かれた1行の文章はなにか、ということです。

(「しんせかい」の最後の2段落の文章より引用)

どちらでも良い。すべては作り話だ。遠くて薄いその時のほんとうが、僕によって作り話に置きかえられた。置きかえてしまった。

それから一年【谷】で暮らした。一年後【谷】を出た。

それについて、僕なりに考えてみました。

きっとこの「しんせかい」は、やっぱり倉本さんと過ごした富良野塾の話をノンフィクション的に描いた作品だと思います。思いたいです。書籍のタイトルの筆の字は、倉本さんに書いていただいたそうです。ただ何となく(失礼は承知で)俳優になりたいと思っていたスミトくんにとって、その10代最後に倉本さんたちと富良野塾で経験した1年は彼にとってとても濃密なものであって、彼の将来のベクトル決めることとなった、彼にとっての「しんせかい」であり、さらなる「しんせかい」をひらくきっかけになったものなのだと思います。

そして「しんせかい」は1期生の旅立ち(「谷は眠っていた」も参照)のあと、急速に温度が下がっていったように小説の幕が下ります。どちらでも良い、すべて作り話だ、と。富良野塾2期生が入ったのは1985年、今から30年前です。この物語はおおむね「スミト」目線で語られますが、時折「澄人」目線で語られます。この文章は「澄人」の心境なのだと。当時はどれだけ濃密だった体験も、30年もたてば細部からやがて記憶が遠く薄れてきます。結果としてノンフィクションにフィクションを重ねた形で書くことになってしまった、そんな自分の記憶のふがいなさに、「ああ、僕にとっての『しんせかい』もこんなに創作であふれてしまった時点で、もうこれはただの作り話でしかないのだ」と「澄人」はしたためて、筆をおいたのでしょう。(執筆はスマホですが)

もしかしたら「澄人」は2年目ももっと書きたかったのかもしれません。「スミト」は実際に2年目も濃密な時間を過ごしてきたのでしょうから。しかし経験は、初めての時が最も濃密に、新鮮に記憶に残ります。何も知らない街へ単身のりこんで、やったことないことばかり知らない人たちと体験していく。2年目より1年目のほうが記憶は濃密でしょう。そんな1年目ですら作り話になってしまった。いわんや2年目をや。

2年目の物語なんて完全にフィクションになってしまう、それならここですっぱり終わらせたほうがいい、なんて思ったのでしょうかね。倉本さんのことを思って。

それが却って、余韻として、2年目はどうしたのだろうか、などと考えさせられるのですが。

 

「しんせかい」は単なるさらっと読める青春小説だけではなく、倉本さんと山下さんの絆を感じさせるような深い物語なのだと思います。

 

 

 

次は直木賞恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」を読もうと思います。 

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ぼくのりりっくのぼうよみと落合陽一氏の対談を考える

全国的に冷え込むことが予想され、北海道も強烈な寒気に襲われている。らしい。

世間での出来事は知らないが、少なくとも家の水道が凍結したことだけは確かだ。

今後少なくとも2日間は水が出ない可能性もある。

どうしましょう。

 

しかし僕にとって、うれしいニュースが続く。

 

僕は藤原さくら、ぼくのりりっくのぼうよみ、池田エライザのファンだ。

もちろん、宮崎あおいBUMP OF CHICKENのファンであることも忘れていない。

それは些細なことだと思う。

 

natalie.mu

 

朝からうれしいニュースが舞い込み、今年一番の13日間の中で一番のうれしい話題であった。

僕の好きな藤原さくらと僕の好きなぼくのりりっくのぼうよみと僕の好きな羽海野チカのコラボレーションがみられるとは、朝から飛び跳ねたくなるように記事をサラリと呼んだ。

 

そして、今日の22時から始まった藤原さくらのツイキャスにて、

3月のライオンのテーマソングを歌うことの報告

スペースシャワーミュージックアワードのベストブレイクスルーアーティストにノミネートされたこと

③2月ぐらいにファンクラブができる予定だということ

が報告され、なぜかそのタイミングで全く関係のないぼくのりりっくのぼうよみの(携帯代に含めて引き落としなのが気に入らない)ファンクラブに入会した。

つい先日まで会員限定でワンマンツアーの申し込みがあったのに、それが終わった直後になぜか入会した。なぜかはわからない。

 

そして今日の何よりの出来事はまさにこれである。今日一でエモいやつ。

noahs-ark.click

 

ノアの方舟。ぼくのりりっくのぼうよみがクラウドファンディングサイトCampfireで集めた資金を元手に期間限定のオウンドメディアを運営する試み、そのサイトが公表されたのである。

ぼくもしがないパトロンの一人である。

ぼくのりりっくのぼうよみが10人の(言葉を借りると)エモい人たちと対談するジュウエモ企画の第一弾としてメディアアーティストの落合陽一氏との対談が公開された。

 

その対談の内容がとても興味深い(なぁ、って言える自分かっこいいと思われたいだけで、実際にはただ水面に浮かんだ藻屑を漁っているだけだけど、考えてみる分にはタダだよね)と思ったので、自分なりに斟酌してみることにする。

 

対談のテーマは「情報洪水の中での生き方」である。

対談の内容を完結に記載すると以下のようになる。

いや、かなり咀嚼している。

 

①僕たちは、自由意志を失う哲学的ゾンビになりかねない。「生きながらにして死」と隣り合わせの状態である。

②自分にとっての情報を取捨選択できるように、他者を参照した「相対的な確固たる私」を持つ必要がある。

③今後、実質と物質、機械と人間等の区別がつかなくなる。非合理的な規範を作成することが自由意志を持つ私たりえる。

④音楽も規範が教義される経典の一つかもしれない。

⑤自我=身体となっていく将来、自由意志そのものというよりは、自由意志のコントロール(コントロールのコントロール)が重要になってくるのかもしれない。

 

 

情報統制に翻弄された人々は今、情報過多に翻弄されている。トランプ氏がCNNとBuzzfeedは偽のニュースを流すメディアだといったり、DeNAをはじめとしたキュレーションメディアの記事作成の実態も耳に新しい。自ら直接的に入手できる情報はごくわずかであり、僕たちは信用できるものから信用できないものまで様々なメディアを通してしか情報を入手できない。

「私」というものを絶対的に定義づけることは難しい。「私を私付けるもの」は究極的には私自身の身体のみでしかない。いやそれも違うかもしれない。他人の身体に「私が私だと思っているもの」を移植したものは果たして「私」なのだろうか。

自己が他者ではない、と認識することは、たくさんの細かな物差しで片っ端から比べてできたゆえの産物でしかないし、自己=他者であっても、多くの場合は困らないかもしれない。私が私たりえるために、その産物を「私」として大事にしているのだと思う。ただ、その産物を認識しない、自己=他者がフィロソフィカルゾンビーとして蔓延している。僕もおおむねゾンビだ。

AIやVRの研究は今後もものすごい速度で発達していき、ディックやハインライン伊藤計劃らが想像(創造)した未来は現実化するかもしれない。ソード・アート・オンラインのような実質化における事象が物質化に影響する未来は近いし、それ以上のものが実現すると思う。実数と虚数、実像と虚像が存在するなら、「実私(I)」と「虚私(i)」が存在するはずであり、私が私(実私)であるために<head>....<title>[私の名前]</title></head>......とプログラムすることでようやく識閾下に私を保てる。自由意志は規制してこその自由意志なのである。

ハーモニーで嗜好品が規制されるように音楽もまた一種の嗜好品として規制されるような世界になる得るのだろうか。わからない。音楽に言葉や音を発することは必ずしも必要ではないと思う。初音ミクだって音楽だし、頭の中で音楽を奏でられる。自由意志が強制されない限り、音楽は残るのだと思う。そしてそれが私を定義づけるファクターの一つにはなり得るはずだ。

落合陽一氏が挙げていた産業革命以降、人間の代替可能性が人間を定義づける必要性を生み出した。とすれば人間のすべての機能を代替できたとすると、「人間がする」ことは人間を定義づけられなくなり、「人間である」ことだけが人間の定義となる。自由意志は理性的な人間の判断のコントロールであるから、「理性」的な人間は「人間がする」ことはしない。しかしそれは本来の意味でのゾンビとなってしまう。したがって、「理性的な人間として判断のコントロール」するかどうかのコントロールをすることで、あえて自己規範を設けることで、私が私であることが、私として行動し思考することができるはずなのである。

 

さぁ、ノアよ、大洪水を避けるために、ノアにとっての方舟を作るのだ。

 

私にとっての方舟は?

 

しかし、まずは何より、大寒波を救ってほしい。

僕の家の水道の凍結を、救ってほしい。