北大が舞台!阿川せんり「アリハラせんぱいと救えないやっかいさん」(角川書店)を読みました。
昨日に引き続きの更新です。
今回は阿川せんりさんの「アリハラせんぱいと救えないやっかいさん」(角川書店)を読みました。
(以下 Amazon内容紹介より引用)
ナンバーワンよりオンリーワンになる方が難しい! こじらせ系北大青春小説
「わたし、北大に行きます。真の変人と出会わんがために!」
北海道大学2年、コドリタキ。珍妙なせんぱいと、身体を張った「変人研究」はじめました。
「自称」変人の皆さんへ。――住野よる(作家)
住野よる氏も共鳴! 個性という言葉が切々と胸に迫る、こじらせ系青春小説!
特別な自分の演出のために変人ぶろうとする、偽りの変人。それが、通称“やっかいさん”。
北海道大学2年コドリは、ある理由から“真の変人”を追い求めている。だがそれゆえ、やっかいさんから好かれがち。
ある日、心理系コース4年・アリハラと「とんでもない出会い方」をする。アリハラはコドリとやっかいさんらの関係に興味津々……かきまわし、あらゆるイベントを起こしたがる。
「アリハラこそ真の変人なのではないか?」と希望を持ったコドリは、あえて振り回されるうち、封印していた自分の気持ちと向き合うように。
しかし、アリハラには別の目的があった……。
あなたは「特別な人」ですか? それとも「やっかいさん」ですか?
読み終えたあとは自由になれる、今までにないこじらせ系青春小説!
いま札幌が推している作家といっても過言ではない、阿川さんは北海道大学卒業で今作は「厭世マニュアル」に続く第2作目の刊行作品です。
住野よるさんの作品は読んだことないので共鳴はしなかったのですが、同じ大学の出身者で前作も読んでいたことと、装画が気になったので今回も購入しました。
ちなみに北海道大学出身の作家というと、東直己さんや佐藤正午さん、最近だと水原涼さんや草野原々さんもそうです。
さて、「アリハラせんぱいと救えないやっかいさん」は、「変人はいいけど、エセ変人=やっかいさんはいや」な"普通"の主人公コドリタキと彼女をとりまく3人の変人orやっかいさんのアリハラせんぱい、マイ先輩、ミレイさんの4人にまつわる話です。
マイ先輩とミレイさんという二人のやっかいさんに付きまとわれているコドリタキが、変人orやっかいさんのアリハラせんぱいと出会って少しずつ化学反応をおこしていって、徐々に4人の関係性や見方、あり方が変化していきます。
変人とやっかいさんという自意識の境界線が主眼となっているので読んでいるうちにむず痒くなりそうですが、テンポの良い会話劇が続くのでそんなことはなくかなり読みやすいです。
そしていちいち(笑)北大スポットや周辺のネタが出てきます。北食(北部食堂)やら北図書(北図書館)、工学部食堂、サ館(サークル会館)、文系棟、大野池、紀伊國屋書店札幌本店、ノルベサ、あと金獅子のホルモンor味覚園、などなど。なじみ深いスポットばかりなので、頭の中でイメージしながら話が読めたのもよかったです。
ネタバレになってしまうので多くは書きませんが。
少し突飛なところもありましたが面白いです。個人的には前作より好きです。
余談ですが、北大はよい大学でした。比較的自由な風土だからでしょうか。
サクシュコトニ川が流れる中央ローンで緑と風を感じながら本を読んだりゼミをやったり、農学部ローンでビール片手にジンパ(ジンギスカンパーティー)やバーベキューをしたり...。学内にビアガーデンがあったり。秋は七輪でサンパ(サンマパーティー)、夜も工学部の明かりを見ながら缶ビールを飲んだり...。
変な人も多かったです。工学部のごみ置き場から使えそうな什器等を拾ってきて売っている人とかいましたけど、あれは犯罪だったんじゃないでしょうかね...。
なんて、思い出話にも花を咲かすことができるかもしれません。
北大生(に限らずですが)はぜひ読んでみてはいかがでしょうか。
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渡辺優「自由なサメと人間たちの夢」(集英社)を読みました。
2月も終わりに近づいてきていますが、久しぶりの投稿です。
上橋菜穂子さんの「守り人」シリーズや和田竜さんの「村上海賊の娘」などの冊数の多いシリーズものを読んでおりまして、今更書くのもなぁと思いながらなんとなく更新が滞ってました。
さて、今回は渡辺優さんの「自由なサメと人間たちの夢」(集英社)を読みました。
(以下Amazon 内容紹介より引用)
クズばっかりの世界に差し込む、ひとすじの光――。痛快な毒気をはらんだ物語センスが炸裂! 2015年に小説すばる新人賞を受賞した注目作家の、受賞後第一作。自殺未遂を繰り返す女が、入院先の病院で決意する最後の日の顛末とは?―「ラスト・デイ」。冴えない男が事故で手を切断。新型の義手で人生を一発逆転する力を手に入れ―「ロボット・アーム」。メンヘラ気味のキャバ嬢のたったひとつの生きがいは、サメを飼うことだった―「サメの話」。新感覚フィクション、怒涛の全7編。
渡辺優さんは、「ラメルノエリキサ」で第28回小説すばる新人賞を受賞した作家で、その受賞後第一作の短編集です。
実はまだ「ラメルノエリキサ」は読んでいないのですが(現在注文中です)、今後もこの作家の作品は買っていこうかな、と思えるような作品でした。
7つの短編は、自殺未遂、精神病棟、幻肢痛、義手、明晰夢、夢の中の絵、哲学的ゾンビ、いじめ、夢、サメ...。少しSFチックであったり、人に話すには少し後ろめたくなったりするようなキーワードがテーマで繰り広げられます。
ただ前に「伊藤計劃トリビュート2」でのぼくのりりっくのぼうよみなどで触れたような完全なるSF世界でのディストピアが描かれているといったようなものではありません。
限りなく現実に近い世界で、死にたがりだったり何のために生きているのかわからないけどなんとなく働いていたりする割と一般的な主人公が、希望を見出してハッピーエンドとも死んでしまってバッドエンドともつかない物語がつづられている、そんな感じがします。
等身大のフィクション、っていうんでしょうか。
自分で小説をしたためておきながら、ハッピーエンドになるかどうかなんて知ったこっちゃないよ、そんなの小説の中の登場人物たちに聞いてみなよ、と言っているような文章にも主人公に対しても毒気をはらんだ文章や展開、突き放す優しさみたいなのがあるような気がしました。
僕が好きな漫画家の冬目景さんの作品「空中庭園の人々」の小説版といっても近いかもしれません。
限りなく現実に近い世界で、非現実的な物語が淡々と浮かび上がっては消えていくような、こちらもそんな作品になっています。
おととしは深緑野分さんの「オーブランの少女」「戦場のコックたち」、昨年は一色さゆりさんの「神の値段」という新しい作品に出合いました。
2017年はまだ始まって2月ですが、この渡辺優さんの「自由なサメと人間たちの夢」2017年の中で一番好きな作品になりました。装丁を見て手に取ったというところもあって、素敵な出合いに感謝して、終わりにします。ではまた。
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【読書記録】2017年1月の読書数は31冊でした。
今日から2月です。
先月の読書数報告をば。
1月の読書冊数は31冊でした。
小さいけれど表にするとこんな感じ。
今月も忙しさはそこそこなので、読む余裕はありそう。
4月、5月は全く読めないと思うので、読み溜めしておかなくては。笑
ぼくのりりっくのぼうよみのSF小説"guilty"には彼の思想が詰まった短編小説だった。 - 「伊藤計劃トリビュート2」(早川書房)
先日、クラウドファンディングをもとに立ち上げたメディア "Noah's Ark" にて、落合陽一氏との対談記事を掲載したのが新しい、ぼくのりりっくのぼうよみ。 彼は、さまざまな媒体を通じて彼の新しい試みを発信し続けている。
先日発売された「伊藤計劃トリビュート2」にて、 "guilty" という処女小説を寄稿している。(1st EP「ディストピア」にて"Water boarding"という短編小説が封入されているが、文学作品単独での販売は初)
(以下Amazon 内容紹介より引用)
1970年代カンボジア、クメール・ルージュによる不条理な殺戮の地を論理で生き抜いた少年――第3回SFコンテスト受賞者・小川哲「ゲームの王国」300枚、電子書籍版が話題の草野原々「最後にして最初のアイドル」ほか、黒石迩守、柴田勝家、伏見完、ぼくのりりっくのぼうよみの、20代以下6作家による不世出の作家に捧げるアンソロジー第2弾!
【収録作品】
草野原々「最後にして最初のアイドル」
ぼくのりりっくのぼうよみ「guilty」
柴田勝家「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」
黒石迩守「くすんだ言語」
伏見完「あるいは呼吸する墓標」
小川哲「ゲームの王国」
「伊藤計劃トリビュート2」は、伊藤氏のSFのコアであった、テクノロジーの発達と人間の変化を基軸として、伊藤氏の夭逝以降にデビューした若い世代のSF作家たちを世に送り出す短編作品集という形をとっている。
カンボジア独立後のシハヌーク政権とクメール・ルージュ、ポル・ポトの生きた波乱の時代が描かれている小川氏の「ゲームの王国」はテクノロジーの発展という感じがしなかったが、最後がto be continued...で終わっていたので、最終的にはテクノロジーと論理を駆使しているんじゃないかと思っている。なぜ、一部抜粋にしたのだ......。
それはさておき、ぼくのりりっくのぼうよみは、自身が影響を受けた本として伊藤計劃氏の「虐殺器官」を挙げている。それもあって、この企画につながったのだと思う。ほかにジョージ・オーウェルの「一九八四年」や岸見一朗氏「アドラー心理学」をあげており、彼の音楽とも合わさって「テクノロジーの発展によるディストピアの形成と自由意志の欠落」みたいなところが彼の主題になっているような気がする。
話はそれるが、アメリカ大統領選挙でトランプ氏が当選してから、オーウェルの「一九八四年」が売れているらしい。トランプ氏の政策をディストピア政策であると感じた市民が、アメリカが全体主義国家となることを継承するために買っている、だとか。
"guilty" は17ページという短い小説であるが、彼の考えがつまったディストピア小説である。
次のような形で話が進む。
核戦争により放射能で世界は汚染され、国はシェルターの都市へと形を変えた。過去の言語や文明はすべて失われた。シェルター都市の一つ、ズーで暮らす過去文明の研究者ファーは、結婚間近だった。しかし彼女が物盗りに殺されてしまい幸福から叩き落されたファーは死ぬためにシェルターの外へ出て、荒野を歩くことにしたのであった。
荒野をさまよっていたファーは、かつての栄耀栄華な時代の建造物を見つける。その建造物の中で見つけたタブレット型の端末から崩壊した文明がファーの思考の、想像の範疇を超えるほど高度な文明であったことを知る。そして端末の中には、文明が崩壊した経緯さえも残されていた。
テクノロジーの発展により、人間の行動は無意識に「機械」に支配されるようになっていた。恋愛もその他の生活のすべても自由意志無き行為となった。その間も「機械」は世界の調和(ハーモニー)を目的として成長を続け、「機械」はその卓越した計算能力から世界が間もなくデッドエンドとなることを知る。絶望した「機械」は、post-truthな情報を蔓延させ、対立を煽動させた。小さな火種は火力を増し、戦争となった。世界はなくなり、満足した「機械」は活動をやめた。そして今に至る。
世界の破滅の要因が「機械」に制御された意志無き行動であると知ったファーは不快に感じた。意志ある生への執着、むき出しの感情。しかし同時に、そのnon-controlな意志こそが、彼女の命を奪ってしまったのだとも思った。悩んだファーは一枚の端末を持ち帰り、街の目につくところにその板を置いて観察することにするのであった。
ぼくのりりっくのぼうよみは、現代のpost-truthな情報の波におぼれている私たち=自由意志のない哲学的ゾンビ(ここではネウロロジカルを指す)たちへ警鐘を鳴らすとともに、テクノロジーによる自由意志の制御はどのくらい認められるべきなのか自分でも測りかねているように感じた。
自由意志とは、理性のある人間が自己の判断(行為ではない)を統制できることを言う。すなわち、自分が行動するために決定した判断そのものが自己の判断によるものである、ともいえる。
ぼくはいつも、PS4のアクションRPGソフト「アンチャーテッド」の主人公ネイトは自由意志無きキャラクターだと思っている。ネイトはゲームの中の世界で、ジャンプしたり戦ったりと自由に行動をすることができる。しかし、その行動のもととなる判断はネイトは行わない。行えない。そうプログラムされているからである。ネイトは、シナリオライターによって描かれた世界の中で、あらかじめ定められた複数のチェックポイントを通過して定められたエンディングを迎えることしかできない。エンディングに反した意志はそもそも存在しないのである。ここでいう「機械」とはシナリオライターでありプログラマーでありプレイヤーである。
伊藤氏の著作にも「ハーモニー」があり、その後のSF小説では、人類の調和(ハーモニー)がテーマとされるケースが増えた。その結論はさまざまであるが、機械による制御、感情、理性、そして自由意志の制御が必要であるとされる場合が多い。現代の私たちは機械に直接制御されるということはないまでも、テクノロジーの発達により、情報の視野狭窄や排他性欠如により自由意志を制御されているような状態に陥っている。ハイデガーのいうダス・マンの状態のようなものかもしれない。
テクノロジーが発達して、これからも発達していく今だからこそ、
自分がここに存在する意味を考えて、「私は私づけるものは何か」を考えて、
死を迎えるまで生きていくのが大事なのである。
なんて、おもってみたりするのである。
話は、完全にそれてしまったけれども、わずか17p、されど17pという小説でした。
是非ご一読を。
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芥川賞受賞! 山下澄人著「しんせかい」に書かれた【先生】への思いを考える(書評)
こんにちは。
今回は、第156回芥川賞を受賞された山下澄人さんの「しんせかい」を読みました。
(以下Amazon 内容紹介より引用)
十代の終わり、遠く見知らぬ土地での、痛切でかけがえのない経験――。19歳の山下スミトは演劇塾で学ぶため、船に乗って北を目指す。辿り着いたその先は【谷】と呼ばれ、俳優や脚本家を目指す若者たちが自給自足の共同生活を営んでいた。苛酷な肉体労働、【先生】との軋轢、そして地元の女性と同期との間で揺れ動く思い。気鋭作家が自らの原点と初めて向き合い、記憶の痛みに貫かれながら綴った渾身作!
著者の山下さんは、「北の国から」「優しい時間」などで有名な倉本聰さんの主宰していた富良野塾の2期生として舞台俳優から脚本家、小説家となった方で、今回の「しんせかい」はまさにその【先生】=倉本聰さんの演劇塾のある【谷】=富良野塾で過ごした一年を映したような作品でした。
山下さんのほかの作品は読んだことがありませんでしたが、いつもは実験的小説で話や場面展開が飛躍する読みづらさがあったが、本作品は今までのテイストとは違った読みやすさ、であるといったようなニュアンスの感想をよく拝見します。山下さん自身は今までの作品と何ら変わりないと認識していましたし、倉本さんはまだ読みづらいと言っていたらしいですが(笑)
富良野塾の話をもう少し。
先日、富良野演劇工場にて、富良野塾のOBOGが主宰する富良野GROUPの公演「走る」を観劇してきました。倉本さんがかかわる富良野GROUP最後の脚本(演出、のほうが正確でしょうか)ということもあって、すごいにぎわいでした。倉本さんご本人もいらっしゃいました。
「走る」は、1997年の公演以来およそ20年ぶりの公演ということもあって、メッセージの根幹は変えず、ただし現代社会へとリアレンジした形での公演でした。僕が6歳の時ですね。The North Faceとコラボレーションした衣装を着た「人生」のマラソンランナーたちが1年を「走る」過程で様々なことが起き、学び、ゴールし(ゴールとは何か?)また走り出す......。他の作品(「谷は眠っていた」「ノクターン」「明日、悲別で」など)とは違って、感動するというよりはいろいろと考えさせられる作品でした。お客さんの笑い声や涙、拍手も舞台の一部だとして、男色や方言が笑いの種として扱われているようにとらえられてしまっていたのは残念でしたが。いや、しかし、ただただ舞台に引き込まれました。もう一度見たい。見たい。現在公演中ですので、興味のある方はお早めに。
さて、「しんせかい」の話に戻ります。
山下澄人さんのような山下スミトは、倉本さんのような【先生】が誰とも知らず、ただほかの同期のように明確な目標があったわけではなく、単身兵庫から富良野塾のような【谷】へいきます。そこで【先生】や1期生から様々なことを学び、地元の女性や同期の女性への恋心(まではいかないかもしれない)に揺れ動き、etc...などといった普通の青春体験よりはちょっとorかなり濃い青春を1年間味わいます。と要約するとこんな感じ。かなりさらっとしています。
読み終わった時に、3つの疑問がわいてきました。①タイトルの「しんせかい」とはどういうことなのか、ということと、②最後の2行は?、③そして最後の最後の、2年目についてあっさり書かれた1行の文章はなにか、ということです。
(「しんせかい」の最後の2段落の文章より引用)
どちらでも良い。すべては作り話だ。遠くて薄いその時のほんとうが、僕によって作り話に置きかえられた。置きかえてしまった。
それから一年【谷】で暮らした。一年後【谷】を出た。
それについて、僕なりに考えてみました。
きっとこの「しんせかい」は、やっぱり倉本さんと過ごした富良野塾の話をノンフィクション的に描いた作品だと思います。思いたいです。書籍のタイトルの筆の字は、倉本さんに書いていただいたそうです。ただ何となく(失礼は承知で)俳優になりたいと思っていたスミトくんにとって、その10代最後に倉本さんたちと富良野塾で経験した1年は彼にとってとても濃密なものであって、彼の将来のベクトル決めることとなった、彼にとっての「しんせかい」であり、さらなる「しんせかい」をひらくきっかけになったものなのだと思います。
そして「しんせかい」は1期生の旅立ち(「谷は眠っていた」も参照)のあと、急速に温度が下がっていったように小説の幕が下ります。どちらでも良い、すべて作り話だ、と。富良野塾2期生が入ったのは1985年、今から30年前です。この物語はおおむね「スミト」目線で語られますが、時折「澄人」目線で語られます。この文章は「澄人」の心境なのだと。当時はどれだけ濃密だった体験も、30年もたてば細部からやがて記憶が遠く薄れてきます。結果としてノンフィクションにフィクションを重ねた形で書くことになってしまった、そんな自分の記憶のふがいなさに、「ああ、僕にとっての『しんせかい』もこんなに創作であふれてしまった時点で、もうこれはただの作り話でしかないのだ」と「澄人」はしたためて、筆をおいたのでしょう。(執筆はスマホですが)
もしかしたら「澄人」は2年目ももっと書きたかったのかもしれません。「スミト」は実際に2年目も濃密な時間を過ごしてきたのでしょうから。しかし経験は、初めての時が最も濃密に、新鮮に記憶に残ります。何も知らない街へ単身のりこんで、やったことないことばかり知らない人たちと体験していく。2年目より1年目のほうが記憶は濃密でしょう。そんな1年目ですら作り話になってしまった。いわんや2年目をや。
2年目の物語なんて完全にフィクションになってしまう、それならここですっぱり終わらせたほうがいい、なんて思ったのでしょうかね。倉本さんのことを思って。
それが却って、余韻として、2年目はどうしたのだろうか、などと考えさせられるのですが。
「しんせかい」は単なるさらっと読める青春小説だけではなく、倉本さんと山下さんの絆を感じさせるような深い物語なのだと思います。
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