僕の読書メモ

札幌在住の25歳。読書とコーヒーと服が好きです。上手な文章を書けるようになりたいです。

ぼくのりりっくのぼうよみと落合陽一氏の対談を考える

全国的に冷え込むことが予想され、北海道も強烈な寒気に襲われている。らしい。

世間での出来事は知らないが、少なくとも家の水道が凍結したことだけは確かだ。

今後少なくとも2日間は水が出ない可能性もある。

どうしましょう。

 

しかし僕にとって、うれしいニュースが続く。

 

僕は藤原さくら、ぼくのりりっくのぼうよみ、池田エライザのファンだ。

もちろん、宮崎あおいBUMP OF CHICKENのファンであることも忘れていない。

それは些細なことだと思う。

 

natalie.mu

 

朝からうれしいニュースが舞い込み、今年一番の13日間の中で一番のうれしい話題であった。

僕の好きな藤原さくらと僕の好きなぼくのりりっくのぼうよみと僕の好きな羽海野チカのコラボレーションがみられるとは、朝から飛び跳ねたくなるように記事をサラリと呼んだ。

 

そして、今日の22時から始まった藤原さくらのツイキャスにて、

3月のライオンのテーマソングを歌うことの報告

スペースシャワーミュージックアワードのベストブレイクスルーアーティストにノミネートされたこと

③2月ぐらいにファンクラブができる予定だということ

が報告され、なぜかそのタイミングで全く関係のないぼくのりりっくのぼうよみの(携帯代に含めて引き落としなのが気に入らない)ファンクラブに入会した。

つい先日まで会員限定でワンマンツアーの申し込みがあったのに、それが終わった直後になぜか入会した。なぜかはわからない。

 

そして今日の何よりの出来事はまさにこれである。今日一でエモいやつ。

noahs-ark.click

 

ノアの方舟。ぼくのりりっくのぼうよみがクラウドファンディングサイトCampfireで集めた資金を元手に期間限定のオウンドメディアを運営する試み、そのサイトが公表されたのである。

ぼくもしがないパトロンの一人である。

ぼくのりりっくのぼうよみが10人の(言葉を借りると)エモい人たちと対談するジュウエモ企画の第一弾としてメディアアーティストの落合陽一氏との対談が公開された。

 

その対談の内容がとても興味深い(なぁ、って言える自分かっこいいと思われたいだけで、実際にはただ水面に浮かんだ藻屑を漁っているだけだけど、考えてみる分にはタダだよね)と思ったので、自分なりに斟酌してみることにする。

 

対談のテーマは「情報洪水の中での生き方」である。

対談の内容を完結に記載すると以下のようになる。

いや、かなり咀嚼している。

 

①僕たちは、自由意志を失う哲学的ゾンビになりかねない。「生きながらにして死」と隣り合わせの状態である。

②自分にとっての情報を取捨選択できるように、他者を参照した「相対的な確固たる私」を持つ必要がある。

③今後、実質と物質、機械と人間等の区別がつかなくなる。非合理的な規範を作成することが自由意志を持つ私たりえる。

④音楽も規範が教義される経典の一つかもしれない。

⑤自我=身体となっていく将来、自由意志そのものというよりは、自由意志のコントロール(コントロールのコントロール)が重要になってくるのかもしれない。

 

 

情報統制に翻弄された人々は今、情報過多に翻弄されている。トランプ氏がCNNとBuzzfeedは偽のニュースを流すメディアだといったり、DeNAをはじめとしたキュレーションメディアの記事作成の実態も耳に新しい。自ら直接的に入手できる情報はごくわずかであり、僕たちは信用できるものから信用できないものまで様々なメディアを通してしか情報を入手できない。

「私」というものを絶対的に定義づけることは難しい。「私を私付けるもの」は究極的には私自身の身体のみでしかない。いやそれも違うかもしれない。他人の身体に「私が私だと思っているもの」を移植したものは果たして「私」なのだろうか。

自己が他者ではない、と認識することは、たくさんの細かな物差しで片っ端から比べてできたゆえの産物でしかないし、自己=他者であっても、多くの場合は困らないかもしれない。私が私たりえるために、その産物を「私」として大事にしているのだと思う。ただ、その産物を認識しない、自己=他者がフィロソフィカルゾンビーとして蔓延している。僕もおおむねゾンビだ。

AIやVRの研究は今後もものすごい速度で発達していき、ディックやハインライン伊藤計劃らが想像(創造)した未来は現実化するかもしれない。ソード・アート・オンラインのような実質化における事象が物質化に影響する未来は近いし、それ以上のものが実現すると思う。実数と虚数、実像と虚像が存在するなら、「実私(I)」と「虚私(i)」が存在するはずであり、私が私(実私)であるために<head>....<title>[私の名前]</title></head>......とプログラムすることでようやく識閾下に私を保てる。自由意志は規制してこその自由意志なのである。

ハーモニーで嗜好品が規制されるように音楽もまた一種の嗜好品として規制されるような世界になる得るのだろうか。わからない。音楽に言葉や音を発することは必ずしも必要ではないと思う。初音ミクだって音楽だし、頭の中で音楽を奏でられる。自由意志が強制されない限り、音楽は残るのだと思う。そしてそれが私を定義づけるファクターの一つにはなり得るはずだ。

落合陽一氏が挙げていた産業革命以降、人間の代替可能性が人間を定義づける必要性を生み出した。とすれば人間のすべての機能を代替できたとすると、「人間がする」ことは人間を定義づけられなくなり、「人間である」ことだけが人間の定義となる。自由意志は理性的な人間の判断のコントロールであるから、「理性」的な人間は「人間がする」ことはしない。しかしそれは本来の意味でのゾンビとなってしまう。したがって、「理性的な人間として判断のコントロール」するかどうかのコントロールをすることで、あえて自己規範を設けることで、私が私であることが、私として行動し思考することができるはずなのである。

 

さぁ、ノアよ、大洪水を避けるために、ノアにとっての方舟を作るのだ。

 

私にとっての方舟は?

 

しかし、まずは何より、大寒波を救ってほしい。

僕の家の水道の凍結を、救ってほしい。

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