読書ノート

札幌在住の26歳。読書が好きで読書感想ブログをちまちま書いています。特に推理小説が好きですが、どんなジャンルの本でも読むように心がけています。おすすめの本は通年募集中です。

今読みたい!ゴードン・マカルパイン「青鉛筆の女」(東京創元社)を読みました。(ネタバレ含む)

こんにちは。

 

今回はゴードン・マカルパインさんの「青鉛筆の女」(東京創元社)を読みました。

 

 

 

青鉛筆の女 (創元推理文庫)

青鉛筆の女 (創元推理文庫)

 

 (以下Amazon 内容紹介より引用)

2014年カリフォルニアで解体予定の家の屋根裏から発見された貴重品箱。なかには三つのものが入っていた。1945年にウィリアム・ソーン名義で発表された低俗なパルプ・スリラー。編集者からの手紙。そして、第二次大戦中に軍が支給した便箋――ところどころ泥や血で汚れている――に書かれた、おなじ著者による未刊のハードボイルド。反日感情が高まる米国で、作家デビューを望んだ日系青年と、担当編集者のあいだに何が起きたのか? 書籍、手紙、原稿で構成される凝りに凝った物語。エドガー賞候補作。/解説=村上貴史

 

 エドガー賞候補となった本作品の特徴は、内容紹介に記載されているように、①1945年にウィリアム・ソーン名義で発表された低俗なパルプ・スリラー、②編集者からの手紙、③第二次大戦中に軍が支給した便せんに書かれた同じ著者による未刊のハードボイルド、この3つに書かれた文章がかわるがわる登場する。

つまり、小説の体裁としては、2014年にこれらの①~③の書籍・手紙・原稿を発見した誰か(ここでは、マカルパイン氏とする)が、その書籍・手紙・原稿を横断しながら読み進めていった、そのような形に物語が進んでいく。

 

①の書籍、③の原稿とともに、物語の舞台は、1942年、日本がアメリカに真珠湾攻撃を仕掛けたその前後のアメリカ、カリフォルニアである。

①の書籍は、 -ウィリアム・ソーン名義で1945年に発刊された小説「オーキッドと秘密工作員」は、ー 朝鮮系アメリカ人ジミー・パークが主人公となり日本人スパイの女、オーキッドを追いかけた、サスペンス・スリラー小説で、オーキッドは逃がしたもののその片腕のファントムを仕留めたところまでが描かれている。それなりの売れ行きで(後記より)、続編の期待される終わり方であったが、その後続編は出なかった。

③の原稿には、日系アメリカ人の東洋美術史の非常勤講師であるサム・スミダが、映画館でフィルムが切れた途端3週間のタイムトラベルに巻き込まれ、その3週間の間に起きた真珠湾攻撃により日系アメリカ人の迫害に巻き込まれながらも、11か月前に殺された妻、キョーコの殺人事件の真相にせまっていく話が描かれている。

そして間に挟まる②の手紙には、タクミ・サトー(作家ウィリアム・ソーンの本名)とメトロポリタン・モダン・ミステリー社の敏腕女副編集長、マクシーン・ウェイクフィールドとのやり取りが描かれており、それは主に小説原稿(③はその姉妹編であるようである)に青鉛筆(編集者の必須品)でメスを入れ(②)、①の書籍へと変えていったやり取りが描かれている。

 

物語は読んでいくにつれて、①と③の小説が不思議に絡み合って行き、互いにリンクする形で物語が集結する。あっさりと終る物語に、僕も何の変哲もない、さらに言えばただのチープなミステリであるように感じられた。

しかし、それで終わるはずがない。その謎が、最後の10ぺージに表れている。

 

下記は、p273 ③の原稿の最終文より引用したものである。

意識を失う前に最後に感じたのは銃の反動で、最後に聞いたのは銃声だった。

(了)

 

起稿:1943年7月5日、ミシシッピ州ハティズバーグ、キャンプ・シェルビーにて

脱稿:1944年7月3日、イタリア、セシナにて

 

 

また、②の最後の手紙は次のように始まる。

1944年8月23日

カリフォルニア州マンザナー

マンザナー戦時移住センター

ブロック14-1-3

アヤコ・サトー様

 

拝啓

何よりもまず、すばらしいご子息タクミ様のご逝去を心よりお悔やみ申し上げます。米軍に志願なさるまで一年半、親しくお仕事をご一緒出来てうれしゅうございました。軍隊ではご子息は獅子奮迅のご活躍をなさり、まことに名を揚げられました。イタリアのセシナでの勇猛果敢な戦いぶりに対して死後…(中略)

 

つまりこれらの作品の作者であるタクミ・サトーは、1941年12月に発生した真珠湾攻撃がきっかけでアメリカ国内で高まった反日感情、それに伴い強制収容された日系アメリカ人の一人であり、当時の日本による「日系は白人に迫害されている」という批判の対策として築かれた日系人部隊「第100歩兵大隊」として1943年ミシシッピ州ハティズバーグ、キャンプ・シェルビーに送られる。

そして、その「第100歩兵大隊」はときに「第442連隊戦闘団」として第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線に投入された。小説を脱稿したのが1944年7月3日であることやセシナにて死亡したことを鑑みると、おそらくタクミ・サトーが戦死したのは、イタリア戦線における中部イタリア防衛線の渦中であると考えられる。

すなわち③の未刊の小説は第二次世界大戦中、軍人として働いている間に描かれたものであり、①の発表された小説は、真珠湾攻撃前に編集部へと手渡されていたことがわかるのである。

 

しかしこれだけでは終わらない、②の手紙はさらにこのように続く。

タクミが入隊前に原稿を完成させた小説「オーキッドと秘密工作員」は現在、来年の二月に刊行される運びとなっております。…(中略)…契約書では、ウィリアム・ソーンというペンネームで刊行することになっておりますが、ご子息が最近、軍曹の例を受けられたため、二世の勇士が書いたものとするほうが市場でより受け入れられるだろう…(中略)…本書の刊行に関する契約書の変更(具体的に言えば著者名の変更です)は、相続人であるミセス・サトーのご承認をいただかなければなりません。したがいまして同封の権利放棄証書にご署名のうえ、返送していただく必要がございます。

 

 そして、編集後記として(さて、誰が書いたのでしょうか。)、以下のように記載されて、この「青鉛筆の女」の小説が終わる。

…(中略)…丁寧な手書きで「息子は過去数か月間、自分の気持ちを手紙ではっきりと私に知らせてきました。従いまして、ミス・ウェイクフィールド、ご依頼の件はお断りいたします」と書かれ、「アヤコ・サトー、1944年8月31日」という署名と日付が入っていた。…(中略)…

 

 つまり、タクミ・サトーの書いた(内容はかなり改編されているが)小説「オーキッドと秘密工作員」は1945年の2月に刊行予定であるが、その間に戦争にて逝去されたことを鑑み、日系アメリカ人二世として、ウィリアム・ソーン名義ではなく本名のタクミ・サトー名義で出してはどうかとミス・ウェイクフィールドは打診したが、アヤコ・サトーからするとその申し出は憤懣やるかたないものであった。

改訂前の小説原稿では、暴力的な表現を用いておそらく日系アメリカ人が白人によって迫害される様子を克明に描いていたのだが、青鉛筆の女とのやり取りで、主人公や犯人の様相から何から何まで、すべて変えさせられたのだろう。その気持ちを母親に数か月にわたって手紙で気持ちを伝えてきた。おそらく、「もうこの作品はもはや僕が書こうとしたものではなく、表現の自由すら奪われてしまった。この小説はもはや僕が書いたものではない」といったような形で。

それをこの青鉛筆の女は、タクミの名前で出したいだと?タクミが亡くなられたことは本当に残念だが、「オーキッドと秘密工作員」は間違いなく素晴らしい作品だと?タクミがこんなに悩んでいたというのに、どこ吹く風でよくそのようなことが言えたものだ!と、思われたことでしょう。

8月23日におそらくニューヨークから出された手紙は8月31日付でカリフォルニアから返信された。当時のアメリカで東海岸から西海岸まで手紙を送るとすると相当程度日数がかかるはず。8月31日の日付は届いて早々、怒りの返信を行ったものであると想像される。

 

「オーキッドと秘密工作員」がそれなりに売れたことからも、当時のアメリカ世論では日本人や日系アメリカ人が悪者の小説が人気だったことを示唆したものだと考えられる。そしてその読者からすれば、1945年に刊行された小説の真相が70年ぶりに明らかにされたということになる。そしてその真相とは、日系アメリカ人の主張が不当に歪められていたということであったのだろう。

 

本作品のタイトルが「青鉛筆の女」、原題も"Woman with a blue pencil"となっていることからも、主眼が「この小説の作者が日系アメリカ人であり、WW2で戦没していたこと」ではなく、「当時のアメリカ情勢において、小説による日系アメリカ人の主張を不当に虐げられたこと」であることがうかがえる。

 

近年、差別や偏見のない政治的中立性として、ポリティカル・コレクトネスが世界中で謳われている。その中で、ドナルド・トランプ氏による偏見を助長する発言や、しかし一方で口を開けば何でも、それはポリティカル・コレクトネスに反すると批判されることから、過度のポリティカル・コレクトネスが、よけいに差別や偏見を引き起こしている、とも言われている。

 

ポリティカル・コレクトネスの時代とその誤解:なにが「ポリコレ疲れ」を生んでいるのか? | THE NEW CLASSIC [ニュークラシック]

 

こんな記事も。何でも「それは差別だ」「それは偏見である」といった批判的な流れは日本でもそこかしこであがってきている。女性の社会進出だって、平等のように聞こえるが、過度な対応は新たな女性差別や相対的な男性差別にもつながりかねない。

 

アメリカでのポリティカル・コレクトネス疲弊、そして言語の輸入により日本でも頓に書かれるようになったこれらの差別や偏見。

 

そんな時代だからこそ、この作品を読んでみるのもよいのかもしれません。

 

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