読書ノート

札幌在住の26歳。読書が好きで読書感想ブログをちまちま書いています。特に推理小説が好きですが、どんなジャンルの本でも読むように心がけています。おすすめの本は通年募集中です。

多和田葉子「地球にちりばめられて」

言語は壁にもなれば、架け橋にもなる。

「言葉と歩く日記」の作者、多和田葉子さんの最新刊「地球にちりばめられて」もまた、言葉の面白さと自由さを伝える素敵な小説だった。

 

 言葉を探しに行く6人の群像劇

「地球にちりばめられて」は6人の主人公が言語を探しに旅に出る。Hiruko、クヌート、アカッシュ、ノラ、ナヌーク、そしてSusanoo。

Hirukoは留学中に故郷の島国が消滅してしまった北越の留学生。言葉もままならないままヨーロッパに取り残された彼女は、イェーテボリトロンハイム、オーデンセと大陸を移ろいながら自然と形成されていった「パンスカ」という言語を操る。「パンスカ」はデンマーク語とノルウェー語とスウェーデン語をごちゃ混ぜにした手作り言語であって、永遠に完成しない液体文法もしくは気体文法であった。

テレビ越しに見たHirukoに興味をもった、コペンハーゲン大学言語学科の院生ナヌークは彼女に会いにいく決心をする。言語にエロスを感じる言語学者の卵であるナヌークは、Hirukoの失われた故郷の言語を操る者を探すためにトリアーへと向かう。トリアー行きのバスで、性別は男性だが心は女性、赤色のサリーを身に纏うインド出身のアカッシュと出会う。

一方、ノラはカイザーテルメンにてエキゾチックな風貌のテンゾという青年に出会い一緒に暮らすようになる。テンゾはフーズムで鮨職人をしていた経歴を持ち出汁の研究をしている。そのことを知ったノラはテンゾのためにトリアーでウマミ・フェスティバルを開くことにした。このテンゾこそが、Hirukoがトリアーへ渡って探していた人物であった。しかしテンゾは開催前日にノルウェーへと姿をくらまし、料理人不在のまま迎えた当日、ノラはHiruko御一行と出会い、テンゾを探しにノルウェーへと向かうこととなる。

テンゾはそのエキゾチックな風貌から失われた国の住人として振る舞ってきたが、エスキモーにルーツをもつグリーンランド出身の留学生でナヌークという名前だった。ノルウェーのレストランでHirukoはテンゾが同郷人ではないことに気づくが、言葉は淀みなく溢れて行った。その後ナヌークを加えた言語研究御一行は、再び言語を、Susanooを探しにアルルへと向かっていく。

 

 

 言葉探しの旅の追体験

彼らは旅をする中で、言語とは何か、母国語とは何か、アイデンティティとは何かを考え進んで行く。私たちは、この小説を通じて、Hirukoとクヌートの、言語を巡る旅を追体験していく。まとまりのない自然発生的な言語が、読み進めるうちに、複雑に絡み合った一束の糸を形作っていく。小説の中でクヌートがネイティブとは何かについて考える記載がある。

 

実は僕もネイティブという言葉には以前からひっかかっていた。ネイティブは魂と言語がぴったり一致していると信じている人たちがいる。母語は生まれた時から脳に埋め込まれていると信じている人もまだいる。そんなのはもちろん、科学の隠れ蓑さえ着ていない迷信だ。それから、ネイティブの話す言葉は、文法的に正しいと思っている人もいるが、それだって「大勢の使っている言い方に忠実だ」というだけのことで、必ずしも正しいわけではない。また、ネイティブは語彙が広いと思っている人もいる。しかし日常の忙しさに追われて、決まり切ったことしか言わなくなったネイティブと、別の言語からの翻訳の苦労を重ねる中で常に新しい言葉を探している非ネイティブと、どちらの語彙が本当に広いだろうか。

(第六章 クヌートは語る(二) No. 2392-2398)

 

私たちは、人種や性別だけではなく扱う言語によって無意識にラベリングしていく。ネイティブとは先天的な者であり、日本語がタドタドしければそれは日本人ではないというように。果たしてそうだろうか、とこの小説を読み終わった私は考える。日本人以外の日本語話者もいれば、日本人で日本語以外の話者もいる。言葉遣いや礼儀、マナーはあるけれど、「こういう時は、こう言わなければならない」という凝り固まったものではなくて、もっと流動的でいい。完璧を目指さなくていいし、完璧な言語など存在しない。

 

「何語を勉強する」と決めてから、教科書を使ってその言語を勉強するのではなく、まわりの人間たちの声に耳をすまして、音を拾い、音を反復し、規則性をリズムとして体感しながら声を発しているうちにそれが一つの新しい言語になっていくのだ。

(第二章 Hirukoは語る No.405-407)

 

「〇〇語」を学ぶのではなく、コミュニケーションを取っているうちに言語化されていく。そもそも、言語とは元々そのように形作られたものたったはずであり、英語は歴史の中で共通語と同意されて認識された世界言語に過ぎない。もし、英語が本当の意味での世界言語であれば、私たちは日常で英語を扱うはずである。

 

音が言葉となる瞬間を味わう

言葉は対応する意味を持って初めて言葉となる。ただ口から発されていた意味を持たない音が、何かに繋がった瞬間、意味を持ち具現化される。

「Tenzoって典座のことだったのね」とHirukoがつぶやいた。クヌートが心から愉快そうに笑った。 「君の中には今二つの言語が見えているんだね。ところがそれが音になって外に出た途端、僕らの耳の中で一つの言語になってしまう。パンダってパンダのことだったのね、と言う人がいたら、君だって笑ってしまうだろう。」 

(第三章 アカッシュは語る No.837-842)

 

テンゾが典座だと気付いたHirukoは博識だ。典座とは禅宗における職位の一つであるそうだが、ここでHirukoが典座について触れていなければ、私にとってテンゾはテンゾのままで終わっていたのだと思う。テンゾという響きに意味があること自体を知らないからである。現代でも新しい言葉が次々と生まれていくが、言葉もまた言語より狭い空間において合意形成される。ネット言語やJK語だってその一つであり、その言葉の枠内にいる人々にとっては当たり前に意味を持つ言葉が、枠外の人々にとって何のこっちゃ、ということは日常的にあることである。クヌートには同じ音に聞こえるが、Hirukoはそこに何かが発見あったんだね、と気づくクヌートも流石だ。

 

ナヌークはきょとんとしていた。言葉の洪水は、相手に理解されなくても気持ちよく溢れ続けた。 「でもね、あなたに会えて本当によかった。全部、理解してくれなくてもいい。こうしてしゃべっている言葉が全く無意味な音の連鎖ではなくて、ちゃんとした言語だっていう実感が湧いてきた。それもあなたのおかげ。ナヌーク、あなたのこと、ノラに話してもいい?」

(第六章 Hirukoは語る(二) No. 2010-2013)

 

 ナヌークは失われた国の人でないし、失われた国の言語が堪能というわけでもなかった。ただ、たとえ文章の物語の意味が分からなくても、たとえHirukoの口から発される音のほとんどが言葉として認識されていなくても、少しの言葉が通じるだけで言語は息を吹き返す。言葉の洪水が相手に理解されなかったとしても、飛沫が口に入れば言葉は通ずるのだ。

ただ、ナヌークが懸命に努力していたことには違いない。その生い立ちや風貌から覚えざるを得なかった、というところもないわけではないが、ナヌークが真剣にその失われた国の言語を積み重ねて行ったからこそHirukoの喜びが生まれたのである。

 

語学を勉強することで第二のアイデンティティが獲得できると思うと愉快でならない。

(第五章 テンゾ/ナヌークは語る No. 1598-1599)

 

ナヌークにとって言語を学ぶというのは、音を言葉にするだけではなく、新しい自我を手に入れることでもあった。エスキモーであるナヌークであると同時に、失われた国の出身者であるテンゾであり続けるための命綱が言語を学ぶことであった。だからこそすぐにナヌークであることをノラに打ち明けられなかったわけであるけれども、言語を習得することは、新しい世界で新しい自分でいられるチャンスなのである。

 

 

言葉はもっと自由でいい

 彼らも、私たちも、地球にちりばめられている。自然的・言語的・文化的国境があって、国がある。国内からパスポートを持って、ビザをもって、海外旅行に出かける。でも私たちは、〇〇人である前に、地球人なのだ。

 

よく考えてみると地球人なのだから、地上に違法滞在するということはありえない。

(第二章 Hirukoは語る No.442-443)

 

インターネットの発展によって、私たちは文章を瞬時にやりとりできるようになった。発展は続いて、今では写真や動画をリアルタイムでやりとりできる。パスポートがなくても海外にいる気分になることも、様々な国の人たちと会議することも可能となった。近い将来、リアルタイム自動翻訳が精緻化すれば、言葉が通じなくても言葉が通じる、そんな世界が訪れるのだろう。私たちはどんどん地球人化していくし、していける。お互い尊重し合うことが一層大事になるが、皆が繋がれるのは素晴らしいことだ。

 

私はある人がどの国の出身かということはできれば全く考えたくない。国にこだわるなんて自分に自信のない人のすることだと思っていた。でも考えまいとすればするほど、誰がどこの国の人かということばかり考えてしまう。「どこどこから来ました」という過去。ある国で初等教育を受けたという過去。植民地という過去。人に名前を訊くのはこれから友達になる未来のためであるはずなのに、相手の過去を知ろうとして名前を訊く私は本当にどうかしている。

(第四章 ノラは語る No.1015-1019)

 

地球人化すれば名前だって自由になる。〇〇人はこういう名前が多い、ということにとらわれなくなる。植民地だって教育だって、様々なバックグラウンドが綯交ぜになれば、忘れてはならない過去を継承することは大事であるとしても、不必要に過去にとらわれる必要はなくなるのだ。

 

終止符の後にはこれまで見たこともないような文章が続くはずで、それは文章とは呼べない何かかもしれない。なぜなら、どこまで歩いても終止符が来ないのだから。終止符の存在しない言語だってあるに違いない。終わりのない旅。主語のない旅。誰が始め、誰が続けるのか分からないような旅。遠い国。形容詞に過去形があって、前置詞が後置されるような遠い国へでかけてみたい。

(第六章 クヌートは語る(二) No. 2197-2201)

 

そして、翻訳の精度が上がれば、自分語翻訳、すなわちオリジナル語の作成も可能になるかもしれない。現在のGoogle翻訳は、英語から日本語に翻訳したものを英語に再翻訳すると違う言葉となる点において、言語の不可逆変換の状態にあると言えるが、もしか逆変換が可能となれば、第2のエスペラント語といえる真のグローバル言語が生まれる可能性もあるし、また狭いコミュニティにおいて多種多様なローカル言語が生まれる可能性もある。言葉はもっと自由で良いのだ。そう思える素晴らしい作品だった。

 

 

ちなみに、多和田葉子さんはドイツで生活されていて、その生活における日常のやりとりをエッセイにした「言葉と歩く日記」、こちらも大変面白いです。なるほどと思ったり、くすっと笑ったり、言葉遊びが楽しくなること間違いありませんので是非ご一読ください。

 

※引用元は、Kindle paperwhiteでの文字サイズを一番小さくした上でのNo.を引用ページの一意性を示すために記載している。

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

 

 

言葉と歩く日記 (岩波新書)

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