読書ノート

札幌在住の26歳。読書が好きで読書感想ブログをちまちま書いています。特に推理小説が好きですが、どんなジャンルの本でも読むように心がけています。おすすめの本は通年募集中です。

アンナ・カヴァン「氷」(ちくま文庫)

久々の読書記録。最近はミステリの枠にとどまらず、SFも読むようになりました。といっても、SF初心者。まずは、というところで世界的名作を読むことにしました。
今回は、アンナ・カヴァンの「氷」(ちくま文庫)です。

 

文庫版のこの黒一色の表紙が、とっても格好いいです。黒色の背景に浮かぶ「氷」の字は、 まるで結晶のように見えますが、作品の中の「氷」は終焉の使者として描かれています。

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 

 (Amazon 内容紹介より)

異常な寒波のなか、私は少女の家へと車を走らせた。地球規模の気候変動により、氷が全世界を覆いつくそうとしていた。やがて姿を消した少女を追って某国に潜入した私は、要塞のような“高い館”で絶対的な力を振るう長官と対峙するが…。迫り来る氷の壁、地上に蔓延する略奪と殺戮。恐ろしくも美しい終末のヴィジョンで、世界中に冷たい熱狂を引き起こした伝説的名作。

 

 

この物語の主要な人物(および現象)は、「私」と「少女」(と「長官」)、そして迫り来る「氷」のみです。フィヨルドなど地形名称は登場するものの、人名や地名などの固有名詞は一切登場せず、極限まで抽象化された世界の中で、氷に閉ざされる世界の終焉、「私」と「少女」のやりとりが淡々と記されています。

 

この物語は読みづらい。その理由は3点あります。

 

1点目は、構図の不変です。迫り来る「氷」、「少女」を追い続ける「私」、「私」を拒み続ける「少女」。物語の構図は最後まで殆ど変わりません。そして「私」なぜ偏執的に「少女」を追い続けるのか、その説明は最後までなされません。最後に「少女」は「私」を受け入れ始めますが、物語はそこで終了し、彼らがその後氷に閉ざされた世界に飲み込まれて行ったのかどうかは描かれていません。「私」の執着にフォーカスすると男である「私」の自己満足小説のように読めてしまいますが、それは本質ではないのでしょう。

 

2点目は、不連続的な連続性です。物語としては、虚構の中で「私」の現実と幻想が、不連続的に複雑に入れ代わり続けるのですが、文章としてはその入れ替わりが連続して書かれているため、ここまでは現実、ここからは「私」の妄想、と区切りをつけて読み進めることが非常に難しい。村上春樹の小説のようです。むしろ、「私」自身が妄想と現実の狭間で現実を生きているものとして読むべきなのでしょうか。

 

3点目は物語の抽象化です。先ほど触れたように物語が過度に抽象化されていることから、彼らが今どこにいて、昼なのか夜なのか、どこに向かっているのか、の情報が与えられないまま読者は読み進めなければなりません。しかしだからこそ、真っ白な世界に「少女」と「私」の姿や行動が、克明に浮き彫りになる、その対比が美しく見させてくれるのかもしれません。

 

この、不変の構図、不明瞭な識閾、抽象化された世界観が、この物語をとても読みづらく、しかしとても幻想的に変えているのだと思われます。

 

 


クリストファー・プリーストの序文には、以下のように描かれています。

スリップストリーム は、科学(とその所産)を無意識の領域に、メタファ、エモーション、シンボルの領域にシフトさせる。スリップストリームは、現代の科学(および科学がもたらしたもの)に対するひとつのレスポンスであり、科学を理解することではないとしても、科学をめぐる人々の感覚を表現してみせる試みなのだ。しかし、これは"アレゴリー"ではない。  

そして、この「氷」はスリップストリームを代表する作品であるとされています。物語を読み終えた後、この序文に再び触れた時、スリップストリーム作品はアレゴリーではないという文に驚きました。

 

アンナ・カヴァンは、自殺未遂、精神病院への入院、そしてヘロイン中毒。この「氷」という作品を上梓した一年後に、ヘロインの摂取によりなくなっています。だからこそ、この「氷」という物語の少女は「アンナ・カヴァン」自身であり、「私」は「ヘロイン」、そして「氷」は「死」のオマージュであるように見えてならなかったのです。だからこそ、物語が進むにつれ世界は抽象化・単純化されていった、「少女」は「私」を拒み続け、しかし最後に「氷」に閉ざされる世界で「私」を受け入れたのだろうと。

 

こういうアレゴリーは小説・漫画・ドラマ・ゲーム、様々な作品で見られます。最近プレイしたRIMEというゲームもこの類でしょう。

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この考え方を、クリストファー・プリーストは真っ向から(それも序文でだ!)否定しているのです。この物語にアレゴリーとしての厳密性はなく、ただただ神秘的で、蠱惑的であると。(クリストファーの記載では「氷」=「ヘロイン」と仮定している)

 

しかし、そうするとこの物語はたちまち捉えどころのない物語として、雲散霧消してしまう。私にはどうしても、そのように見えてならないのですが...。やはり、読むのが難しい物語であることには変わりないのでしょう。