読書ノート

札幌在住の26歳。読書が好きで読書感想ブログをちまちま書いています。特に推理小説が好きですが、どんなジャンルの本でも読むように心がけています。おすすめの本は通年募集中です。

多和田葉子「地球にちりばめられて」

言語は壁にもなれば、架け橋にもなる。

「言葉と歩く日記」の作者、多和田葉子さんの最新刊「地球にちりばめられて」もまた、言葉の面白さと自由さを伝える素敵な小説だった。

 

 言葉を探しに行く6人の群像劇

「地球にちりばめられて」は6人の主人公が言語を探しに旅に出る。Hiruko、クヌート、アカッシュ、ノラ、ナヌーク、そしてSusanoo。

Hirukoは留学中に故郷の島国が消滅してしまった北越の留学生。言葉もままならないままヨーロッパに取り残された彼女は、イェーテボリトロンハイム、オーデンセと大陸を移ろいながら自然と形成されていった「パンスカ」という言語を操る。「パンスカ」はデンマーク語とノルウェー語とスウェーデン語をごちゃ混ぜにした手作り言語であって、永遠に完成しない液体文法もしくは気体文法であった。

テレビ越しに見たHirukoに興味をもった、コペンハーゲン大学言語学科の院生ナヌークは彼女に会いにいく決心をする。言語にエロスを感じる言語学者の卵であるナヌークは、Hirukoの失われた故郷の言語を操る者を探すためにトリアーへと向かう。トリアー行きのバスで、性別は男性だが心は女性、赤色のサリーを身に纏うインド出身のアカッシュと出会う。

一方、ノラはカイザーテルメンにてエキゾチックな風貌のテンゾという青年に出会い一緒に暮らすようになる。テンゾはフーズムで鮨職人をしていた経歴を持ち出汁の研究をしている。そのことを知ったノラはテンゾのためにトリアーでウマミ・フェスティバルを開くことにした。このテンゾこそが、Hirukoがトリアーへ渡って探していた人物であった。しかしテンゾは開催前日にノルウェーへと姿をくらまし、料理人不在のまま迎えた当日、ノラはHiruko御一行と出会い、テンゾを探しにノルウェーへと向かうこととなる。

テンゾはそのエキゾチックな風貌から失われた国の住人として振る舞ってきたが、エスキモーにルーツをもつグリーンランド出身の留学生でナヌークという名前だった。ノルウェーのレストランでHirukoはテンゾが同郷人ではないことに気づくが、言葉は淀みなく溢れて行った。その後ナヌークを加えた言語研究御一行は、再び言語を、Susanooを探しにアルルへと向かっていく。

 

 

 言葉探しの旅の追体験

彼らは旅をする中で、言語とは何か、母国語とは何か、アイデンティティとは何かを考え進んで行く。私たちは、この小説を通じて、Hirukoとクヌートの、言語を巡る旅を追体験していく。まとまりのない自然発生的な言語が、読み進めるうちに、複雑に絡み合った一束の糸を形作っていく。小説の中でクヌートがネイティブとは何かについて考える記載がある。

 

実は僕もネイティブという言葉には以前からひっかかっていた。ネイティブは魂と言語がぴったり一致していると信じている人たちがいる。母語は生まれた時から脳に埋め込まれていると信じている人もまだいる。そんなのはもちろん、科学の隠れ蓑さえ着ていない迷信だ。それから、ネイティブの話す言葉は、文法的に正しいと思っている人もいるが、それだって「大勢の使っている言い方に忠実だ」というだけのことで、必ずしも正しいわけではない。また、ネイティブは語彙が広いと思っている人もいる。しかし日常の忙しさに追われて、決まり切ったことしか言わなくなったネイティブと、別の言語からの翻訳の苦労を重ねる中で常に新しい言葉を探している非ネイティブと、どちらの語彙が本当に広いだろうか。

(第六章 クヌートは語る(二) No. 2392-2398)

 

私たちは、人種や性別だけではなく扱う言語によって無意識にラベリングしていく。ネイティブとは先天的な者であり、日本語がタドタドしければそれは日本人ではないというように。果たしてそうだろうか、とこの小説を読み終わった私は考える。日本人以外の日本語話者もいれば、日本人で日本語以外の話者もいる。言葉遣いや礼儀、マナーはあるけれど、「こういう時は、こう言わなければならない」という凝り固まったものではなくて、もっと流動的でいい。完璧を目指さなくていいし、完璧な言語など存在しない。

 

「何語を勉強する」と決めてから、教科書を使ってその言語を勉強するのではなく、まわりの人間たちの声に耳をすまして、音を拾い、音を反復し、規則性をリズムとして体感しながら声を発しているうちにそれが一つの新しい言語になっていくのだ。

(第二章 Hirukoは語る No.405-407)

 

「〇〇語」を学ぶのではなく、コミュニケーションを取っているうちに言語化されていく。そもそも、言語とは元々そのように形作られたものたったはずであり、英語は歴史の中で共通語と同意されて認識された世界言語に過ぎない。もし、英語が本当の意味での世界言語であれば、私たちは日常で英語を扱うはずである。

 

音が言葉となる瞬間を味わう

言葉は対応する意味を持って初めて言葉となる。ただ口から発されていた意味を持たない音が、何かに繋がった瞬間、意味を持ち具現化される。

「Tenzoって典座のことだったのね」とHirukoがつぶやいた。クヌートが心から愉快そうに笑った。 「君の中には今二つの言語が見えているんだね。ところがそれが音になって外に出た途端、僕らの耳の中で一つの言語になってしまう。パンダってパンダのことだったのね、と言う人がいたら、君だって笑ってしまうだろう。」 

(第三章 アカッシュは語る No.837-842)

 

テンゾが典座だと気付いたHirukoは博識だ。典座とは禅宗における職位の一つであるそうだが、ここでHirukoが典座について触れていなければ、私にとってテンゾはテンゾのままで終わっていたのだと思う。テンゾという響きに意味があること自体を知らないからである。現代でも新しい言葉が次々と生まれていくが、言葉もまた言語より狭い空間において合意形成される。ネット言語やJK語だってその一つであり、その言葉の枠内にいる人々にとっては当たり前に意味を持つ言葉が、枠外の人々にとって何のこっちゃ、ということは日常的にあることである。クヌートには同じ音に聞こえるが、Hirukoはそこに何かが発見あったんだね、と気づくクヌートも流石だ。

 

ナヌークはきょとんとしていた。言葉の洪水は、相手に理解されなくても気持ちよく溢れ続けた。 「でもね、あなたに会えて本当によかった。全部、理解してくれなくてもいい。こうしてしゃべっている言葉が全く無意味な音の連鎖ではなくて、ちゃんとした言語だっていう実感が湧いてきた。それもあなたのおかげ。ナヌーク、あなたのこと、ノラに話してもいい?」

(第六章 Hirukoは語る(二) No. 2010-2013)

 

 ナヌークは失われた国の人でないし、失われた国の言語が堪能というわけでもなかった。ただ、たとえ文章の物語の意味が分からなくても、たとえHirukoの口から発される音のほとんどが言葉として認識されていなくても、少しの言葉が通じるだけで言語は息を吹き返す。言葉の洪水が相手に理解されなかったとしても、飛沫が口に入れば言葉は通ずるのだ。

ただ、ナヌークが懸命に努力していたことには違いない。その生い立ちや風貌から覚えざるを得なかった、というところもないわけではないが、ナヌークが真剣にその失われた国の言語を積み重ねて行ったからこそHirukoの喜びが生まれたのである。

 

語学を勉強することで第二のアイデンティティが獲得できると思うと愉快でならない。

(第五章 テンゾ/ナヌークは語る No. 1598-1599)

 

ナヌークにとって言語を学ぶというのは、音を言葉にするだけではなく、新しい自我を手に入れることでもあった。エスキモーであるナヌークであると同時に、失われた国の出身者であるテンゾであり続けるための命綱が言語を学ぶことであった。だからこそすぐにナヌークであることをノラに打ち明けられなかったわけであるけれども、言語を習得することは、新しい世界で新しい自分でいられるチャンスなのである。

 

 

言葉はもっと自由でいい

 彼らも、私たちも、地球にちりばめられている。自然的・言語的・文化的国境があって、国がある。国内からパスポートを持って、ビザをもって、海外旅行に出かける。でも私たちは、〇〇人である前に、地球人なのだ。

 

よく考えてみると地球人なのだから、地上に違法滞在するということはありえない。

(第二章 Hirukoは語る No.442-443)

 

インターネットの発展によって、私たちは文章を瞬時にやりとりできるようになった。発展は続いて、今では写真や動画をリアルタイムでやりとりできる。パスポートがなくても海外にいる気分になることも、様々な国の人たちと会議することも可能となった。近い将来、リアルタイム自動翻訳が精緻化すれば、言葉が通じなくても言葉が通じる、そんな世界が訪れるのだろう。私たちはどんどん地球人化していくし、していける。お互い尊重し合うことが一層大事になるが、皆が繋がれるのは素晴らしいことだ。

 

私はある人がどの国の出身かということはできれば全く考えたくない。国にこだわるなんて自分に自信のない人のすることだと思っていた。でも考えまいとすればするほど、誰がどこの国の人かということばかり考えてしまう。「どこどこから来ました」という過去。ある国で初等教育を受けたという過去。植民地という過去。人に名前を訊くのはこれから友達になる未来のためであるはずなのに、相手の過去を知ろうとして名前を訊く私は本当にどうかしている。

(第四章 ノラは語る No.1015-1019)

 

地球人化すれば名前だって自由になる。〇〇人はこういう名前が多い、ということにとらわれなくなる。植民地だって教育だって、様々なバックグラウンドが綯交ぜになれば、忘れてはならない過去を継承することは大事であるとしても、不必要に過去にとらわれる必要はなくなるのだ。

 

終止符の後にはこれまで見たこともないような文章が続くはずで、それは文章とは呼べない何かかもしれない。なぜなら、どこまで歩いても終止符が来ないのだから。終止符の存在しない言語だってあるに違いない。終わりのない旅。主語のない旅。誰が始め、誰が続けるのか分からないような旅。遠い国。形容詞に過去形があって、前置詞が後置されるような遠い国へでかけてみたい。

(第六章 クヌートは語る(二) No. 2197-2201)

 

そして、翻訳の精度が上がれば、自分語翻訳、すなわちオリジナル語の作成も可能になるかもしれない。現在のGoogle翻訳は、英語から日本語に翻訳したものを英語に再翻訳すると違う言葉となる点において、言語の不可逆変換の状態にあると言えるが、もしか逆変換が可能となれば、第2のエスペラント語といえる真のグローバル言語が生まれる可能性もあるし、また狭いコミュニティにおいて多種多様なローカル言語が生まれる可能性もある。言葉はもっと自由で良いのだ。そう思える素晴らしい作品だった。

 

 

ちなみに、多和田葉子さんはドイツで生活されていて、その生活における日常のやりとりをエッセイにした「言葉と歩く日記」、こちらも大変面白いです。なるほどと思ったり、くすっと笑ったり、言葉遊びが楽しくなること間違いありませんので是非ご一読ください。

 

※引用元は、Kindle paperwhiteでの文字サイズを一番小さくした上でのNo.を引用ページの一意性を示すために記載している。

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

 

 

言葉と歩く日記 (岩波新書)

言葉と歩く日記 (岩波新書)

 

 

ダフネ・デュ・モーリア「レベッカ」(新潮文庫)

レベッカ」はゴシック・ロマンスの金字塔と呼ばれる作品である。

 

ゴシック・ロマンスとは、人の手があまり介在しない、そこに存在する情景や状態、また超自然的現象が、読者に不気味さを感じさせる、現代のホラー小説やSF小説にもつながる荒涼的な作風である。ガストン・ルルーの「オペラ座の怪人」やメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」などが、このゴシック・ロマンスの系譜であると言われている。個人的には、ヘンリー・ジェイムスの「ねじの回転」も、この系譜に入れておきたい。

 

この本のタイトルである「レベッカ」は、主人公の名前では無い。主人公の名前は最後まで明かされず、「わたし」の一人称視点で物語は進んでいく。

ヴァン・ホッパー夫人の付き人としてモンテカルロのホテルで過ごす「わたし」は、マキシミリアン・デ・ウィンターに見初められ、結婚を申し込まれる。ヴァン・ホッパー夫人の元を離れ、マキシムの保有する邸宅マンダレーへと迎え入れられる「わたし」、しかしそこで待っていたのは、難しい家政婦頭のダンヴァーズと、海難事故で亡くなった前妻のレベッカの存在であった…。

 

物語の前半は、環境も生活様式も言葉遣いも何もかも変わってしまった「わたし」が、亡き前妻にして、類まれなる美貌・行動力・その他全てを兼ね備えていたレベッカの影に苦しむ様子が描かれている。マキシムは本当に「わたし」を愛しているのだろうか、レベッカのことが忘れられないのでは無いだろうか、と戸惑う「わたし」。そんな「わたし」に対して、ダンヴァーズさんはことあるごとに、(元)ミス・デ・ウィンターはこんなに素晴らしかったと、嫌みたらしく話しかける。マンダレーのいたるところに残るレベッカの存在。それが仮装舞踏会の翌日、マンダレー近くの海岸に船が座礁するところから、物語は一変する。

 

読者にとっては、物語の前半は見えない敵レベッカの爪痕に気味の悪さを感じるものであった。それが、物語の後半では、「わたし」にとっても読者にとってもレベッカはとるに足らないもののような存在へと変化していく。一方で存在感が増す「わたし」。彼女の心情はこの文章に全てが含まれているように感じられる。

 

マキシムはわたしの前に立って、手を差し出した。
「軽蔑してるだろう?きみには僕の屈辱、底しれない嫌悪と汚辱がわかるはずもない」
わたしは何もいわずにマキシムの手を自分の胸に押しあてた。マキシムの屈辱なんて気にならなかった。聞かされたことの悉くがどうでもよかった。わたしはたったひとつのこと、それだけにすがりついて、何度も心の中で繰り返していた。
マキシムはレベッカを愛していない。ただの、ただの一度も愛したことはない。一瞬の幸せも分かち合ったことはない。
マキシムはまだ話している。わたしは聞いていたが、なんの意味もなかった。わたしにはどうでもよいことだった。

 

レベッカ下巻P128-P129より)

 

マキシムが犯した過去の罪を「わたし」に告白するシーン。マキシムは懺悔しながら、こんなことをしでかした私を君が好きになるわけがない、と思っている。しかし「わたし」にとってはマキシムが犯した罪などどうでも良くて、ただひとつ、レベッカを愛していなかった。そして「わたし」は愛されている。ただその一点こそが、彼女の求めていた言葉であり、彼女は羽の生えたように心が軽くなる。

 

マキシムが犯した罪、そしてそれに対する責任の所在などは物語を見て確かめれば良いが、後半の見所はやはり「わたし」の小気味悪さなのだろう。レベッカというタイトルであったにもかかわらず、もう物語の端々からもレベッカの存在は感じられない。そこに存在するのは「わたし」、「わたし」、「わたし」なのである。

 

そして読者は「わたし」の存在を色濃く認識しているにも関わらず、頭の中に「わたし」を思い浮かべることはできない。それこそこの物語がゴシック・ロマンスたる所以なのかも知れない。

 

物語が終わった後、読者は皆第1章、第2章を読み返す。そしてあの一文目を再び目にするのである。

「ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た。」

 - Last night I dreamt I went to Manderley again.

 

レベッカ〈上〉 (新潮文庫)

レベッカ〈上〉 (新潮文庫)

 

 

レベッカ〈下〉 (新潮文庫)

レベッカ〈下〉 (新潮文庫)

 

 

 

すごい、なんか、すごい。本谷有希子「静かに、ねぇ、静かに」(群像3月号/講談社)

先日発売された「群像」3月号に本谷有希子さんの創作3本が一挙公開されていた。本谷有希子さんは、純文学系の作家の中で一番好きな作家で、ずっと楽しみにしていたので、(北海道)の発売日に買って、さっそく読んだ。 

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群像 2018年 03 月号 [雑誌]

群像 2018年 03 月号 [雑誌]

 

 

「静かに、ねぇ、静かに」という創作群の中に、いい歳になっているにもかかわらずインスタで自己表現する3人組のマレーシアの旅の模様を描いた「本当の旅」、ネットショッピング依存症の妻をネットから解放するために知り合い夫婦とキャンピングカーでの旅に出た夫婦の話を描く「奥さん、犬は大丈夫ですか?」、夫婦揃って職を失いどん底に落ちたのは印のせいだ、と二人だけが知る印を動画に撮ろうとする夫婦の話を描く「でぶのハッピーバースデー」の3つの短編が掲載されている。

 

全体タイトルの「静かに、ねぇ、静かに」はの頭文字の通り、SNSが今回の短編集のテーマ。インスタグラム、AmazonYoutube、といったところだろうか。(ネットショッピングはSNSではないが、アフィリエイトやブログ、SNS上でのクチコミ等も含めているのだろう。)今の社会のコミュニケーション、社会ツールを織り交ぜた人間たちの群像劇は、どこかのコミュニティーや家庭を覗き見しているような感覚にさせられる。

 

「本当の旅」は、ハネケンとづっちんとヤマコがマレーシアに行く。彼らは来年40になるぐらいの年齢だが、そんなの関係なくハネケンだしづっちんだしヤマコだ。ラインで連絡を取りながら空港に集まり、検査場で迷惑をかけながら、フードコートのおばさんに文句を言いながら、マレーシアへと旅立つ。マレーシアについてからも、キングサイズのベッドに飛び込みはしゃぎ、男と女なんて関係なく3人で一部屋、ベッドさえも共有すれば、「まじ」で「ヤバイ」会話を繰り広げる。途中から、この物語は3人の大学生が貧乏旅行する話のように感じてくる。

しかし、昼寝から目覚めると鏡に映るのはおっさんだし、隣で横たわっているのは、どこからどう見ても黒ずくめのおばさんだった。いわゆる「いい年こいてはしゃいでる」状態だと気づかされる。でもそれと同時に「その光景を見た瞬間、ズゴッ、という何か重たいものが外れるような音」がハネケンの頭に響く。なにかの箍が外れたのか、社会という重圧から解放されたのか。何れにしても、彼らはおじさんおばさんであると同時に、その瞬間だけ年齢から解放される。

そのあとも屋台巡りを動画に収め、自撮り棒で写真撮影をし、Instagramに画像を上げるための素材を撮りまくる。彼らは本当の旅は「してる時そのものの中」にはなくて、「あとから見返す時間」なんじゃないか、と話をしながら、彼らはタクシーに乗る。目的地ではなく、人気のない廃墟に連れていかれても、彼らは恐怖に怯えながらも、笑顔でインスタ用の写真をとったり自撮りをしたりする。そして......。

 

「ファインダー越しの私の世界」だったり、「置き画クラブ」だったり、インスタ映えを狙った独特の文化が存在する。見えないところはいい。見えるところだけでいい。いかに素敵な写真を撮るか。それが全てだ。水面下の白鳥は彼らには関係ないのだ。

 

そういえばこんな事件もありました。

www.nikkei.com

「本当の旅」は後から見返したときに、旅をしたことを感じられること。旅からは、絶対に安全に戻らなければならないのだ。

 

 

「奥さん、犬は大丈夫だよね?」はネット依存症の浪費家の主人公と超倹約家の相手がたの奥さんとの対比が面白い。「登山行くの?じゃあこのトマトとコーヒー淹れた魔法瓶持って行きなさい?お金も使わないし、あなた好きでしょ?」あー、いるいる!いや登山なんて荷物なるべく軽くするんだけど!みたいな。でも、そんなこと関係なく、ただの親切心っていうところに人柄がありありと出ているし、でもそのトマトとコーヒーを持って山を登ってしまう旦那さんの人柄もありありと出ている。お互いに仕方ないなと思うところはありつつも受け入れている、こちらの夫婦は長続きしそうだが......。主人公の夫婦はそうはいかないみたい。旦那は妻の浪費ぐせに怒り心頭だし、妻は旦那の言葉すくななところや他人の前で自分を貶めようとする行為にイライラしている。

一行は、キャンピングカーに乗って道の駅のパーキングエリアで一泊してから目的地に向かうらしいが、パーキングエリアでこの物語は終わる。相も変わらず、旦那が怒り散歩に出かける。酒の勢いもあって、妻は旦那の愚痴を倹約家夫婦に漏らす。そこでいたずらでキャンピングカーの位置をずらして旦那を驚かせようとする。飲酒運転になるがパーキングエリア内だからまぁいいだろう。妻は車を動かそうとするがギアがバックに入っていたのか縁石に乗り上げる。その後ギアを戻してキャンピングカーを移動させて旦那を待つが一向に帰ってこない。倹約家夫婦は旦那をさがしにいくと......。

結論は分かっている。旦那はその前の休憩の時、キャンピングカーの後方に寄り掛かって、煙草を吸っていたし、奥さんは旦那が戻っていたらあの狭いキャンピングカーのロフトの暗闇で共に過ごすことを憂いた直後思い立ったように、エンジンをふかし、バックにギアを入れたまま、アクセルを強めに踏み込んでいるのだから。(きっと、タバコの火がバックミラーに映っていたのでしょう。)

でも話の主題はそこではなくて、奥さんのネットショッピング依存にある。奧さんは普通に買い物にはまっているだけだろうと軽く読んでいると、「次に買うもの探しに追われ」るようになり、「必要なものを全部買い尽くしちゃったらどうしよう」と思い始める。そして子供ができたときも、子供ができたことへの喜びより「赤ちゃんのものがいくらでも買える」と思ってしまった、奥さんのネットショッピング信仰が恐ろしい。欲しいものを買うために、ネットショッピングという手段を利用するのではなく、ネットショッピングを利用することが目的になっている。

倹約家夫婦が旦那を見つけているときに妻は思う。あそこに横たわっているものが、「何が必要になるだろう」と。

 

僕もかなりの頻度でAmazonを利用している。年間100万円ぐらいは使っていると思う。食料品も本もネットで買えるし、ゲームも音楽も映画もネットでダウンロード出来る。その手軽さが恐ろしい。クリックすることに意義を感じ始めるから、僕もきっと依存してる。買ったのに使わないもの、読んでいない本、やっていないゲームが大量にあったりしていつも呆れられる。流石に人が死んだときに何を買おうかな、とは思わないかもしれないけど、友達が結婚したときに、おめでとう!、よりも先に、じゃあ新しいネクタイ買おうかな、とかシャツを新調しようかな、とか考えることもあるから同類なのだと思う。おそろしやおそろしや。刑務所には入りたくないので、節約しようと思ったのでした。

 

最後に「でぶのハッピーバースデー」。炎上しそうなタイトルだけれど、「でぶ」っていうのは旦那の譲歩したいいかたなのかもしれない。「でぶってほどじゃない」し、それよりも歯並びの悪さが目に付くのだけれども、旦那はでぶと呼ぶ。二人は夫婦揃って働いていた会社が倒産し、ハローワークで職探しを始める。その頃から、旦那はでぶと呼ぶ。会社が倒産したのだって、職探しがうまくいかないのだって、「何かを諦めた人間」だという印が付いているからだと旦那はいう。それが歯並びの悪い歯だと。でも二人の夫婦関係はいつだって対等なところが少し歯がゆい。

その後、でぶは職を見つけ、旦那も遅れて同じところで務め始める。ことはうまく回り始め、その勢いもあって、でぶは歯列矯正のための抜歯をする。まずは片側、右側だけ。ただ、術後の腫れ・熱のために長期で休み、店長に次はないと釘を刺されてしまう。片側だけ歯並びの良いバランスの悪い顔のまま二人とも働き続けているが、段々と働く事を疑問に思い始める。

Youtuberの特番を見て、でぶの動画を公開しようと旦那が言い始める。「そのふざけた顔がもっともっとふざけていく様子を毎日とって見せ続ければいいんだよ」、旦那は「でぶの新しい右側の歯」が誕生日プレゼントに欲しいという。抜歯した歯ではなく、少し良くなった歯並びの歯を、だ。それに対してでぶはいう。「あんたのいう通りかも、あたし達は、もっと何かをしなきゃいけないのかも。」最初は、近くの歯科の矯正モニターですら、自分の一番恥ずかしいところを見せたくないと言っていたでぶが、不特定多数への動画配信もありかもしれない、なんて思い始める。

「いいね」の数や再生数を稼ぐために徐々に過激になっていくのは今に始まった事ではない。スナッフ・フィルムやハッピー・スラッピングもその一種だし、コンビニのアイスケースに入ったり、飲食店の流しで風呂に入ったり、とんかつソースを鼻に突っ込んだりして、それを写真や動画にとって流して炎上する。だんだんと善悪の判断がなくなり、面白いか面白くないか、それだけが判断基準となるのは、楽しいけれど危険だ。

 

 

3つの短編を読んだが、彼らは皆、何かに麻痺している。もう私たちの生活からは、インターネットやSNSを切り離すことはできない。 ただ、それに依存するのではなく、共存していかなければならないのだと、強く思った。

 

 

本谷有希子さんは芥川賞をとった「異類婚姻譚」も含め、どの作品も、人間性が豊かな登場人物に溢れている。ただ突飛ではなく、「あぁ、なんかいる気がする」「こういう人、どっかであったことある気がする」と思えるような人間性だ。そしてブラックユーモアや皮肉や悪意も入りみだれる。それがとてもおもしろいので、群像3月号も他の作品も未読の人は是非とも読んで欲しい。

 

異類婚姻譚

異類婚姻譚

 

  

あの子の考えることは変 (講談社文庫)
 

 

幸せ最高ありがとうマジで!

幸せ最高ありがとうマジで!

 

 

佐藤航陽「お金2.0」/落合陽一「日本再興戦略」(Newspicksbooks)

最近Newspicksbooksから出版される書籍が、Kindleの上位によく上がっています。 

なるべくベストセラーになっている書籍は読むようにしようと心がけているので、今回は佐藤航陽さんの「お金2.0」と落合陽一さんの「日本再興戦略」を読みました。自分用のメモも含めて、気になったところをピックアップ。

 

「お金2.0」は、最近ICOによる資金調達で話題になっていた、メタップス代表取締役の描くこれからの「お金」についての本です。この本では、資本主義が限界を露呈し始め、いわゆる今までの「お金」の価値尺度を超える、新しい「お金」の概念を踏まえて、価値主義へと移り変わっていくことを示唆していました。

 

 

お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)

お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)

 

 

実際に私たちが生活している経済は少なくとも2つの性質の異なる経済が混ざり合ってできています。労働して給料もらい、コンビニに行ってお金を払うと言う一般的な経済は「消費経済(実体経済)」と呼ばれています。大半の人はこの経済の中で生きているはずです。もう一つが、お金からお金を生み出す経済、これは「資産経済(金融経済)」と区別されています。こちらの経済をメインに生きている人は資産家や金融マンなどのごく一部の人たちです。ただ、世の中に流通しているお金の流れの9割近くは資産経済のほうで生まれています。

 

人間の生活に必要なお金というのは極めて少額だと思います。仮想通貨を含めた投資・投機にかかる支出がほとんどです。昔は家計を判断する材料として、エンゲル計数が使われてきましたが、これから個人の支出に占める割合は、どんどん広い意味での「娯楽」「趣味」が大きくなっていくと思います。

 

無形資産として反映させることもできますか、それはほんの一部です。

(中略)

ITなどの企業は財務諸表を見ていても、企業の競争優位性となる価値が一切反映されていないので、その企業の将来性を予測することは難しいのです。

(中略)

ものを扱わないネット企業で、財務諸表上の価値として認識されていないものの1つが「人材」、もう一つが「データ」です。

 

公認会計士の自分が言うのもアレですが、今の会計制度や財務諸表が、株式市場において実体経済の尺度として機能しているのかは疑問です。いわゆるノウハウや顧客データの価値の測定が難しく、対価として判別不明な部分についても、現行制度で企業結合における超過収益力を「のれん」として計上することを認めていますが、あくまでも企業結合時における投下資本の範囲内であり、価値の再評価は減少方向でしかなされません。また、自己創設のれんは認められていません。

極端な話、「社員1名(=社長)で自己資金でスタートアップしました。自分で開発しているのでほとんど経費はかかりません。今は無料で提供してデータを収集しているところです。」という企業は財務諸表上、何も活動していないことにみえるかもしれません。

 

 

そのため、「可視化された『資本』ではなく、お金などの資本に変換される前の『価値』を中心とした世界」への変化が予想され、価値とは次の3つから構成されると述べられています。

 

①有用性としての価値:「役に立つか?」という観点から考えた価値

②内面的な価値:愛情、共感、興奮、行為、信頼など、実生活に役立つわけではないけれど、その個人の内面にとってポジティブな効果を及ぼす

③社会的な価値:個人ではなく社会全体の持続性を高めるような活動

 

そして、「資本主義の問題点はまさに①の有用性のみを価値として認識して、その他の2つの価値を無視してきた点にあり」、そういった従来の基準では適切に価値を判断できないからこそ、価値主義による価値を価値尺度により判断していこうじゃないですか、という流れです。

 

個人が自分に最も適した経済を選んでいくという「選択」かあるだけです。

落合さんは、ワークアズライフでレイヤー化した経済を選択し行き来する、と言っていました。

 

先程の価値と言う観点からすると30歳前後の世代は、すでに車や家や時計などのものに対して高いお金を払うと言う感覚がわからなくなりつつあります。

 

ほんとこれで、高い時計よりもアウトドアウォッチやスマートウォッチが欲しいし、車は新車はいらないしシェアでもいい、不動産は所有するリスクが高いから賃貸でいいし、豪邸への憧れはない。備え付けで飾らなくていいから、自分で自由にオプションできるようになってほしい。

 

自分なりの独自の枠組みを作れるかどうかの競争になります。枠組みの中の競争ではなく、枠組みそのものを作る競争です。

 

完全にステレオタイプな枠組みの中で動いてます。よろしくないですね。

 

これからの価値基盤は従来型と大きく変わってくるのは至極納得できる話です。自分も今までの常識に囚われず、新しい価値観を認め、リスク評価していかなければならないですね。

今話題のcoincheckも仮想通貨が悪いという的外れな議論にならないように気をつけなければなりませんね。

 

 

続いて、落合さんの「日本再興戦略」を読みました。研究者やアーティスト活動など、マルチで活動している落合さんですが、ワークアズライフなど、自分の働き方やこれから生きていくためにはこうすべき、などいつも個人に焦点をあてているとイメージだったので、「日本」というテーマで書かれていたのは意外でした。(勝手なイメージですね。)

日本をよくしていくためにはどうするべきか、というのを、日本の歴史の特異性を学び、海外と悪い比較をせずに、持ち味をいかして、再興していこう。まさにタイトル通りの一冊になっていました。

 

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

 



 

「個人」として判断することをやめればいいと僕は考えています。「僕個人にとって誰に投票するのがいいか」ではなく、重層的に「僕らにとって誰に投票すればいいだろう」(中略) と考えたらいいのです。個人のためではなく、自らの属する複数のコミュニティの利益を考えて意思決定すればいいのです。

(中略)

これからの日本に大事なのは、いろんなコミュニティがあって、複数のコミュニティに所属しつつ、そのコミュニティを自由に変えられることです。

 

経済=コミュニティとするならば、佐藤さんの書籍の中でも同様の話をされていました。同じ色に染まる必要はなく、自分の色でいられるところで咲きなさい。そして、それぞれの「僕ら」のなかで、「僕」として存在すればいい。というのは、平野啓一郎さんの分人主義に通ずるところがあるように感じます。

 

オンとオフの区別をつける発想自体がこれからの時代にはいません。無理なく続けられることを、生活の中に入れ込み複数行うのが大切なのです。

ワークアズライフですね。残業などの概念もなく、やりたいことをやりたいだけやって生活する、幸せの究極系ですね。

 

 

昭和の時代においては、マスメディアが大衆の画一的な需要を作り出すと言う戦略は正しかった。マスメディアが国民全員に同じ方向を見させることによって、「次は自動車が売れる、テレビが触れる、洗濯機が売れる」と言うふうに消費行動読みやすくなったのです。これは企業にとって好都合です。どこの分野に投資したらいいかわかりやすかったですし、国内で発達した技術的価値を国外に移転することができました。これがうまい戦略だったこと間違いありません。

(中略)

もう一つ、トレンディードラマに代表されるマスメディアがもたらした害悪があります。それは、拝金主義です。今の日本は拝金主義すぎます。

 

高度経済成長化では正しい選択でしたが、そのステレオタイプな像に未だに洗脳されているということですね。たしかに、自分が経験したことがないことは、時に作られた映像から造り上げることがあります。最近は、Youtubeで幼児向けに、「小学生の一日」や「薬屋さんでお買い物」などの教育的動画を配信していたりしますが、これも洗脳ですよね。実際に「小学校」や「薬屋」を訪れた時、映像との違いを受け入れられなくなる可能性はあります。

 

お金からお金を生み出す職業が、一番金を稼げる(=価値がある)と考えると言うこと自体が間違っているのです。制度や発明だと生産性のある事は何もしていませんし、社会に富を生み出していません。それなのに、金融機関に行きたがる若者が多いのは、マスメディアで洗脳されているからです。ドラマの中に出てくる主人公が銀行で働いている設定だったりするのは、マスメディアで報じられる金持ちへの憧れがあるのでしょう。

(中略)

医者は重要な職業であり、価値を産みますが、優秀な人が一緒にばかりなる必要はありません。弁護士は、社会制度を複雑にしたおかげで生き残った職業です。それは公認会計士や税理士も同じです。これらの仕事の給料は高いですが、社会に富も価値も産みだしていません。制度を難しくこねくり回しているだけなので、あまり意味がないのです。今後、AIが進化していったら、弁護士や公認会計士は今後さらに不要となってくるでしょう。

厳しいですが、おっしゃる通りです。これから生き残るためには、公認会計士+αにならなければなりません。大手監査法人での副業・兼業緩和を訴えていく必要があります。

 

これから日本をアップデートし、日本を再興するためには、まず意識を改革しなければなりません。これまでの常識を捨てて、新しい時代を生きるための能力を育む必要があります。では、新しい時代に磨くべき能力とは何でしょうか。それは、ポートフォリオマネジメントと金融的投資能力です。

バランス感と先見の明。 

 

リサーチメソッドと言う授業は、アメリカの大学にはだいたいあるのですが、日本にはほとんどありません。これは、ヨーロッパ人がサイエンスを作るときに獲得した作法です。

(中略)

専門性を持っている人がMBAに行くのはいいですが、

(中略)

MBAを学ぶ位であれば、リサーチメソッドやアートを学んだ方が良いでしょう。今の日本の教育を受けていると、どこにもアートに触れる機会がありません。

(中略)

アートを学ばないと、ものの複雑性を理解できません。生涯教育というのであれば、アートも組み込んでいくべきでしょう。アートを学ぶといっても、美術館に行けという話ではなく、アートの基本作法を学ぶと言うことです。どういうお作法でアートができているかとか、アートの価値はどこにあるかとか、そうしたことを学ぶということです。

これは自分用のメモ。全く意識したことがありませんでした。

 

これからは、ワークとライフが無差別となり、すべての時間がワークかつライフとなります。「ワークアズライフ」となるのです。生きていることによって、価値を稼ぎ、そして価値を高める時代になるのです。

そうした時代において一番重要なのは「ストレスフルな仕事」と「ストレスフルではない仕事」をどうバランスするかです。要するに、1日中、仕事やアクティビティを重視していても、遊びの要素を取り入れて心身のストレスコントロールがちゃんとできていれば、それでもいいのです。

ストレスコントロールもまた、ポートフォリオマネジメントということですね。

 

 

よく、何かストレスマネジメントでオススメはありますか?と言われるのですが、個人として、ストレスマネジメントのために力を入れているのは、筋トレです。

最後に。落合さん、筋トレしてたんですか。

 

 

たまには、小説以外の本も読まなければいけませんね。上記の2冊を読んでトレンドワードがだいぶ理解できたので、よかったです。

ただ、Kindle版で買って、気になったところをハイライトしていたのですが、出力しようとしたら書き出し制限がかかっていて、「せっかくの機能を殺すな!」と思いました。仕方なく音声入力したのですが、舌ったらず&声がこもりがちなので、間違っている部分があるかもしれません…。

 

 

一月とクラフトビールと本の話

もう1月も終わろうとしているのですが、年末年始休みが長かったせいでいまだに休みボケをしています。年始から、北海道神宮に初詣(親戚づきあいを避けるために何をお願いするでもなく参拝した)に行き、今年はここ10年で最高の雪質と言われているニセコスノーボードにいき、東京にいき、トマムに行き、インフルエンザになり、とめまぐるしい1ヶ月でした。

そう、インフルエンザにかかりまして、大変辛い一日だったのですが、薬を飲めば途端によくなり、ただただ仕事初めにもかかわらず、有給にめかしこんで夜更かしでモンハンワールドをやり続けるという始末。それで体調がだんだんよくなるのだから難儀なものですね……。今作のモンハンは10年ぶりぐらいにプレイステーション系で出るということでとても楽しみにしていて、当時中学生から高校生だった僕が2,000時間も費やしたゲームの最新作なのだから、インフルエンザを気にしている暇などなく、3日で40時間ぐらいプレイしたのでございました。

 

1月の半ばに東京に行った時は、初台にあるfuzkueという読書喫茶にいってきました。新宿駅から京王新線にのって一駅のところにある初台は、駅を出ると、いわゆる「地元の駅前商店街通り」になっていて、山手線も一駅外側に出ると、街並みもこんなに変わる、東京の変わり早さをまた一つ味わえました。東京は広い。

fuzkueは読書専門のカフェで、注文・お会計以外は基本的に私語禁止、読書人による読書のための喫茶店。料金形態が面白く、飲食代のほかに利用料が取られるのだが、飲食すればするほど、つまり長居すればするほど、利用料は少なくなり最終的にゼロになるシステム。30分でも3時間でも、だいたい2,000円かかる仕組みになっていて、店主の「どうせ同じぐらいのお金払うんだったら、どんどん長居して本読んでってよ」という意気込みが聴こえるようでした。御多分に洩れず、僕も結局4時間ぐらいずっと本を読んでしまいました。良い東京出張。

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本の話。2018年の読書は「(仮)ヴィラ・アーク設計趣旨 -VILLA ARC(tentative)」から始まりました。風変わりなタイトルですが、内容は館もののミステリ。ただし作者の家原英生さんは一級建築士で、館ものミステリも、一般的な「館を利用した殺人のトリック」よりも「館がそのような設計になっている理由」、つまり設計趣旨に重きを置いた作品になっているところが面白かったです。著者略歴にグッドデザイン賞江戸川乱歩賞最終候補が並ぶ違和感から楽しめる作品になっていました。

 

 

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そこからアイスランドミステリへと読書の道は続きます。昨年「湖の男」が話題になった、アーナルデュル・インドリダソンのエーレンデュル警部シリーズの舞台、アイスランド。日本語になっているアイスランドミステリはそんなに多くなくて、今回読んだラグナル・ヨナソンの「雪盲」やヴィクトル・アルナル・インゴウルフソンの「フラテイの暗号」の他には、イルサ・シグルザルドッティルの「魔女遊戯」が挙げられます。(現在未読・積読アイスランドは夏でも平均気温は10度前半ぐらいと一年中涼しい気候も相まって、もの悲しさの残る物語が多く、文章も感情よりも事実を語っているように感じられるのですが、北海道に住んでいるせいか、僕にとってはその物悲しさが心地よく感じ、どハマりしています。いつかアイスランドにいってやるんだ、と心に秘めてTRANSITのアイスランド号(バックナンバー)を買いました。

ちなみに、アイスランド人には苗字がないらしく、ファーストネーム+父親のファーストネーム+ソン(=son、男の場合)orドッティル(=daughter、女の場合)となり、例えばイルサ・シグルザルドッティルの父親は、おそらくシグルザル・なんとかソンになっているはずであり、これもまた面白いですよねぇ。

 

フラテイの暗号 (創元推理文庫)

フラテイの暗号 (創元推理文庫)

 

 

雪盲?SNOW BLIND?

雪盲?SNOW BLIND?

 

 

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自分の中でクラフトビール元年と銘打って、今年は古本とビールのアダノンキやbeer seller sapporoに通い始めました。ある時アダノンキでミステリ談義になったときに、自分のなかで好きな作品傾向を再認識する機会がありました。純文学もSFもエンターテイメントも好きだが何よりミステリが好き。そこまでは自明だったのだけれども、今回はその先。結果、僕はハードボイルドも好きだが、コージーミステリ・日常の謎がもっと好き。大長編よりは、短編集または短編連作の長編のそれが好きだとわかり、そちらのほうへ食指を進める傾向にあるみたいです。昨年末に読んだ「Y駅発深夜バス」や「サーチライトと誘蛾灯」も最高でしたし、今月読んだ「叫びと祈り」(梓崎優)や「七つの海を照らす星」(七河迦南)、「人魚と金魚鉢」(市井豊)しかり、どの作品もべらぼうに面白かったです。東京創元社に感謝。

 

 

叫びと祈り

叫びと祈り

 

  

  

人魚と金魚鉢 (創元推理文庫)

人魚と金魚鉢 (創元推理文庫)

 

 

 

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直近で読んだものが「僕と彼女の左手」(辻堂ゆめ)と「さよなら僕らのスツールハウス」(岡崎琢磨)と「高架線」(滝口悠生)の3作。辻堂さんはデビュー作から読み続けている作家で、心理学的要素を踏まえたストーリー重視のミステリが多いイメージです。最新作の「僕と彼女の左手」もその流れを汲んでいる作品だと感じました。ちなみに辻堂さん、ほとんど同い年なのですが、普段はIT関係の会社で働きながら執筆活動をしているらしく、執筆ペースも決して遅くはないので、本業と副業の二足の草鞋を履く生活スタイルもかっこいいですね。

岡崎琢磨さんは「珈琲店タレーランの事件簿」でのデビューが僕の中でいまだに衝撃に残っている作家でして。「さよなら僕らのスツールハウス」はシェアハウスを舞台にした青春ミステリで、単なるミステリだけではなく住人の人間性を見えてくるんですね。 

僕と彼女の左手 (単行本)

僕と彼女の左手 (単行本)

 

 

さよなら僕らのスツールハウス (角川書店単行本)

さよなら僕らのスツールハウス (角川書店単行本)

 

 

 

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そして、「高架線」の話。普段いわゆる純文学作家の本をあまり読まないのだけれど、急に読みたくなることがあって、「高架線」は表紙に目を引かれて、そしてあらすじの、年季の入ったアパートを中心に描かれていく物語という、物の思念的なところに惹かれて買って読むことにしたのですけれど、読んだ後、買って間違いない本だったと思えるようなとても良い本でした。

先述した「さよなら僕らのスツールハウス」と「高架線」を同じタイミングで読んだ時、幹は全く違うのですけれど、両小説とも集合住宅を中心に、住人の移り変わりを描き、その住宅がなくなるところで物語が終わっていて、勝手に広がりを感じていたり。まったく関係のない小説が偶然繋がる瞬間があるから本を読むのは面白いと思う訳です。

「 高架線」はうまく練られたある種のミステリだというレビューも見ましたけれど、僕としてはむしろ練らずにただただ書き続けた結果このような顛末に落ち着いた、みたいな文章と自由の広がりを感じられるのびのびとした小説のように感じられました。いつか近いうちにこの本は読み直して、また新しい発見をするのだろうと思います。動いていないのに、常に動き続けていて、文は確かに切れているのに、永遠に続いているような繋がりを感じられるような不思議な心地を味わえる小説でしたし、この本に出会えただけで2018年は最高だったと思える一冊でした。

 

高架線

高架線

 

 

滝口悠生、恐るべし。今月はこの一言に、尽きますね。おわり。