ダフネ・デュ・モーリア「レベッカ」(新潮文庫)
「レベッカ」はゴシック・ロマンスの金字塔と呼ばれる作品である。
ゴシック・ロマンスとは、人の手があまり介在しない、そこに存在する情景や状態、また超自然的現象が、読者に不気味さを感じさせる、現代のホラー小説やSF小説にもつながる荒涼的な作風である。ガストン・ルルーの「オペラ座の怪人」やメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」などが、このゴシック・ロマンスの系譜であると言われている。個人的には、ヘンリー・ジェイムスの「ねじの回転」も、この系譜に入れておきたい。
この本のタイトルである「レベッカ」は、主人公の名前では無い。主人公の名前は最後まで明かされず、「わたし」の一人称視点で物語は進んでいく。
ヴァン・ホッパー夫人の付き人としてモンテカルロのホテルで過ごす「わたし」は、マキシミリアン・デ・ウィンターに見初められ、結婚を申し込まれる。ヴァン・ホッパー夫人の元を離れ、マキシムの保有する邸宅マンダレーへと迎え入れられる「わたし」、しかしそこで待っていたのは、難しい家政婦頭のダンヴァーズと、海難事故で亡くなった前妻のレベッカの存在であった…。
物語の前半は、環境も生活様式も言葉遣いも何もかも変わってしまった「わたし」が、亡き前妻にして、類まれなる美貌・行動力・その他全てを兼ね備えていたレベッカの影に苦しむ様子が描かれている。マキシムは本当に「わたし」を愛しているのだろうか、レベッカのことが忘れられないのでは無いだろうか、と戸惑う「わたし」。そんな「わたし」に対して、ダンヴァーズさんはことあるごとに、(元)ミス・デ・ウィンターはこんなに素晴らしかったと、嫌みたらしく話しかける。マンダレーのいたるところに残るレベッカの存在。それが仮装舞踏会の翌日、マンダレー近くの海岸に船が座礁するところから、物語は一変する。
読者にとっては、物語の前半は見えない敵レベッカの爪痕に気味の悪さを感じるものであった。それが、物語の後半では、「わたし」にとっても読者にとってもレベッカはとるに足らないもののような存在へと変化していく。一方で存在感が増す「わたし」。彼女の心情はこの文章に全てが含まれているように感じられる。
マキシムはわたしの前に立って、手を差し出した。
「軽蔑してるだろう?きみには僕の屈辱、底しれない嫌悪と汚辱がわかるはずもない」
わたしは何もいわずにマキシムの手を自分の胸に押しあてた。マキシムの屈辱なんて気にならなかった。聞かされたことの悉くがどうでもよかった。わたしはたったひとつのこと、それだけにすがりついて、何度も心の中で繰り返していた。
マキシムはレベッカを愛していない。ただの、ただの一度も愛したことはない。一瞬の幸せも分かち合ったことはない。
マキシムはまだ話している。わたしは聞いていたが、なんの意味もなかった。わたしにはどうでもよいことだった。
(レベッカ下巻P128-P129より)
マキシムが犯した過去の罪を「わたし」に告白するシーン。マキシムは懺悔しながら、こんなことをしでかした私を君が好きになるわけがない、と思っている。しかし「わたし」にとってはマキシムが犯した罪などどうでも良くて、ただひとつ、レベッカを愛していなかった。そして「わたし」は愛されている。ただその一点こそが、彼女の求めていた言葉であり、彼女は羽の生えたように心が軽くなる。
マキシムが犯した罪、そしてそれに対する責任の所在などは物語を見て確かめれば良いが、後半の見所はやはり「わたし」の小気味悪さなのだろう。レベッカというタイトルであったにもかかわらず、もう物語の端々からもレベッカの存在は感じられない。そこに存在するのは「わたし」、「わたし」、「わたし」なのである。
そして読者は「わたし」の存在を色濃く認識しているにも関わらず、頭の中に「わたし」を思い浮かべることはできない。それこそこの物語がゴシック・ロマンスたる所以なのかも知れない。
物語が終わった後、読者は皆第1章、第2章を読み返す。そしてあの一文目を再び目にするのである。
「ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た。」
- Last night I dreamt I went to Manderley again.