読書ノート

札幌在住の26歳。読書が好きで読書感想ブログをちまちま書いています。特に推理小説が好きですが、どんなジャンルの本でも読むように心がけています。おすすめの本は通年募集中です。

最近の下着の標準化について

下着の校則についての話が話題となっていますが、この記事は全く関係なく、単に僕が最近コスパがとても良いと思っている下着類について書くだけの記事です。

ビジネスおよびプライベートに使えるコスパ良しの肌着をまとめました。

 

 

 

上肌着(ビジネス用)

ビジネス用の肌着は圧倒的にユニクロのエアリズムがオススメです。

www.uniqlo.com

 

圧倒的な安さ。これ5枚あれば平日は完璧です。メッシュ生地もありますが破れやすいので通常のがオススメです。ワイシャツとの兼ね合いを考えるとVネックがよく、すけにくさからベージュがオススメです。(黒もすけないと思います)

昔はポリエステル85%、ポリウレタン15%だったんですが、最近のはポリエステル89%、ポリウレタン11%と通気性を改善しています。

ただ、化学繊維である以上汗を掻くと乾きづらい点には注意が必要です。

 

上肌着(プライベート用)

プライベートでは前開きにすることも考えると無印のオーガニックコットンTシャツがかなり着心地が良い。

www.muji.net

もうこのご時世、どのTシャツもオーガニックコットンを使っているんでしょ、という感じではあるんですが、何よりも安く、何よりも着心地がよく、何回洗っても生地が磨耗しないのはさすがの無印クオリティという感じです。色はネイビー、グレー、白の3色あり、色違いで着まわせ、1枚でもシャツの下でも自然に馴染む風合いが最高です。丸首の方が柔らかい印象でより休日感、リラックス感が出ますよ。

 

パンツ

ポールスミス無印良品などいろいろなものを経て、最終的にたどり着くのがやはりユニクロのエアリズムです。

www.uniqlo.com

履いたあとははあまりの通気性に一瞬股がヒュッとするんですが、履いてないような心地よさがたまらない。それがこの値段で買えるんだから最高ですね。変に柄入りを買うよりも単色のネイビーやブラックで無難にしたほうが良いです。笑

 

靴下

靴下はビジネスでも普段からでも履ける消臭靴下を探していて、5本指ソックスなども試しましたが、一番良かったのは5本指ではなく普通のソックス。それがMXPのデオドラントソックスです。

www.goldwin.co.jp

スポーツ用品店やアウトドア用品店でも取り扱われるお墨付きの消臭ソックスのなかで、一番ビジネスでもプライベートでも両方使える!!となったのがこの靴下です。

僕は足汗をかなり掻くのですが、他の靴下と比較しても履いた瞬間からの心地よさが全然違います。1日履いた後でも足の匂いはおろか革靴の匂いすら何も匂いません。何度洗っても消臭力が落ちにくく、1足2千円でも試してみる価値大です。

www.goldwin.co.jp

ちなみにスニーカーソックスもあり、夏はスニーカー履いて足首は見せたいという場合にもバッチリ対応できるので、合わせて購入するのがマストですね!

 

 

ちなみにですが、ぼくもたまには靴下で遊びたくなります。おしゃれは足元からっていいますしね。そんな僕が個人的に気に入っている靴下ブランドがCHICSTOCKS(シックストックス)です。

www.chicstocks.com

日本で靴下製造で有名な県は?といえば奈良県!というぐらい、奈良県にはたくさんのソックスブランドがありますが、シックストックスもそんな奈良ブランドの一つです。

2017年に立ち上がったばかりのブランドですが、程よいデザインと綿メインの柔らかい履き心地がたまりません。

友人への贈り物にも最適で、サンダル、スニーカー、革靴、どんな靴にでも馴染むオススメの靴下です!

 

 

また、変わったり追加したりがあれば随時更新します。

 

 

アンナ・カヴァン「氷」(ちくま文庫)

久々の読書記録。最近はミステリの枠にとどまらず、SFも読むようになりました。といっても、SF初心者。まずは、というところで世界的名作を読むことにしました。
今回は、アンナ・カヴァンの「氷」(ちくま文庫)です。

 

文庫版のこの黒一色の表紙が、とっても格好いいです。黒色の背景に浮かぶ「氷」の字は、 まるで結晶のように見えますが、作品の中の「氷」は終焉の使者として描かれています。

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 

 (Amazon 内容紹介より)

異常な寒波のなか、私は少女の家へと車を走らせた。地球規模の気候変動により、氷が全世界を覆いつくそうとしていた。やがて姿を消した少女を追って某国に潜入した私は、要塞のような“高い館”で絶対的な力を振るう長官と対峙するが…。迫り来る氷の壁、地上に蔓延する略奪と殺戮。恐ろしくも美しい終末のヴィジョンで、世界中に冷たい熱狂を引き起こした伝説的名作。

 

 

この物語の主要な人物(および現象)は、「私」と「少女」(と「長官」)、そして迫り来る「氷」のみです。フィヨルドなど地形名称は登場するものの、人名や地名などの固有名詞は一切登場せず、極限まで抽象化された世界の中で、氷に閉ざされる世界の終焉、「私」と「少女」のやりとりが淡々と記されています。

 

この物語は読みづらい。その理由は3点あります。

 

1点目は、構図の不変です。迫り来る「氷」、「少女」を追い続ける「私」、「私」を拒み続ける「少女」。物語の構図は最後まで殆ど変わりません。そして「私」なぜ偏執的に「少女」を追い続けるのか、その説明は最後までなされません。最後に「少女」は「私」を受け入れ始めますが、物語はそこで終了し、彼らがその後氷に閉ざされた世界に飲み込まれて行ったのかどうかは描かれていません。「私」の執着にフォーカスすると男である「私」の自己満足小説のように読めてしまいますが、それは本質ではないのでしょう。

 

2点目は、不連続的な連続性です。物語としては、虚構の中で「私」の現実と幻想が、不連続的に複雑に入れ代わり続けるのですが、文章としてはその入れ替わりが連続して書かれているため、ここまでは現実、ここからは「私」の妄想、と区切りをつけて読み進めることが非常に難しい。村上春樹の小説のようです。むしろ、「私」自身が妄想と現実の狭間で現実を生きているものとして読むべきなのでしょうか。

 

3点目は物語の抽象化です。先ほど触れたように物語が過度に抽象化されていることから、彼らが今どこにいて、昼なのか夜なのか、どこに向かっているのか、の情報が与えられないまま読者は読み進めなければなりません。しかしだからこそ、真っ白な世界に「少女」と「私」の姿や行動が、克明に浮き彫りになる、その対比が美しく見させてくれるのかもしれません。

 

この、不変の構図、不明瞭な識閾、抽象化された世界観が、この物語をとても読みづらく、しかしとても幻想的に変えているのだと思われます。

 

 


クリストファー・プリーストの序文には、以下のように描かれています。

スリップストリーム は、科学(とその所産)を無意識の領域に、メタファ、エモーション、シンボルの領域にシフトさせる。スリップストリームは、現代の科学(および科学がもたらしたもの)に対するひとつのレスポンスであり、科学を理解することではないとしても、科学をめぐる人々の感覚を表現してみせる試みなのだ。しかし、これは"アレゴリー"ではない。  

そして、この「氷」はスリップストリームを代表する作品であるとされています。物語を読み終えた後、この序文に再び触れた時、スリップストリーム作品はアレゴリーではないという文に驚きました。

 

アンナ・カヴァンは、自殺未遂、精神病院への入院、そしてヘロイン中毒。この「氷」という作品を上梓した一年後に、ヘロインの摂取によりなくなっています。だからこそ、この「氷」という物語の少女は「アンナ・カヴァン」自身であり、「私」は「ヘロイン」、そして「氷」は「死」のオマージュであるように見えてならなかったのです。だからこそ、物語が進むにつれ世界は抽象化・単純化されていった、「少女」は「私」を拒み続け、しかし最後に「氷」に閉ざされる世界で「私」を受け入れたのだろうと。

 

こういうアレゴリーは小説・漫画・ドラマ・ゲーム、様々な作品で見られます。最近プレイしたRIMEというゲームもこの類でしょう。

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この考え方を、クリストファー・プリーストは真っ向から(それも序文でだ!)否定しているのです。この物語にアレゴリーとしての厳密性はなく、ただただ神秘的で、蠱惑的であると。(クリストファーの記載では「氷」=「ヘロイン」と仮定している)

 

しかし、そうするとこの物語はたちまち捉えどころのない物語として、雲散霧消してしまう。私にはどうしても、そのように見えてならないのですが...。やはり、読むのが難しい物語であることには変わりないのでしょう。

最近の読書 逸木裕「星空の16進数」、辻堂ゆめ「片想い探偵 追掛日菜子」

久しぶりの投稿です。引越し準備でばたばたしていました。最近、国内より海外ミステリを読むことが多くなっていて、国内ミステリは気になる新刊を追う形になっています。さらに、小説以外にも読まなければならない専門書なども多く、買ったはいいけど読めていないものを多く積み上がってしまって、読書時間を十分に設けられず若干やきもきしています。ただ、アニメとか漫画も並行して読んでいるせいでもあるんですけど…。笑

 

最近買った本はこんな感じです。

・辻堂ゆめ「片想い探偵 追掛日菜子」(幻冬舎) →既読

・逸木裕「星空の16進数」(KADOKAWA) →既読

似鳥鶏「名探偵誕生」(実業之日本社) →未読

ジョー・イデ「IQ」(早川書房) →未読

・木元哉多「閻魔堂沙羅の推理奇譚 負け犬たちの密室」(講談社タイガ) →既読

・F「真夜中乙女戦争」(KADOKAWA) →読書中

・ピーター・スワンソン「そしてミランダを殺す」(東京創元社) →既読

・ロバート・ロプレスティ「日曜の午後はミステリ作家とお茶を」 →既読

・オムニバス「The Best Mistery 2018」(講談社) →読書中

・芦沢央「火のないところに煙は」 →買ったばかり

高橋久美子「いっぴき」 →買ったばかり

連城三紀彦連城三紀彦傑作集1 六花の印」 →買ったばかり

 

ちなみにアニメはPrime Video配信終了になった「宇宙よりも遠い場所」を夢中で見てしまいました。大人ながらに各話涙ながらに見ていました。自分のなかでもかなり印象にのこったアニメでした。漫画は、「川柳少女」「まったく最近の探偵ときたら」「ib〜インスタントバレット〜」「かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦」「大家さんと僕」あたりをぐわあああと読みました。「星野、目をつぶって。」と「僕らはみんな河合荘」、「恋は雨上がりのように」と大好きな作品が次々と完結してしまったのは嬉しくもあり、寂しくもありというところ。現在連載作品で読んでいるのは「かくしごと」と「BEASTARS」、「空電ノイズの姫君」、「ゆるキャン△」、「アルテ」、「第七女子会彷徨」、「バーナード嬢曰く。」とこんなところです。

 

さて、逸木裕さんの「星空の16進数」、これでもかと楽しみにしていました。一作目の「虹を待つ彼女」から発売と同時に読ませてもらっています。2作目の感想を書いたのがちょうど一年前ぐらいです。

 

masahirom0504.hatenablog.com

 

逸木さんの小説の主人公は高校生ぐらいの女の子が多く、今作も高校には通っていないものの同年代の女性が主人公です。ただ、過去2作は屋上から物語が始まっていますが、今回は違いました。(笑) 装画はloundrawさん、とても綺麗な表紙絵です。

 

星空の16進数 (角川書店単行本)

星空の16進数 (角川書店単行本)

 

(Amazon 内容紹介より引用)

 私を誘拐したあの人に、もう一度だけ会いたい。色鮮やかな青春ミステリ。

ウェブデザイナーとして働く17歳の藍葉は、”混沌とした色彩の壁”の前に立つ夢をよく見る。それは当時6歳だった自分が誘拐されたときに見た、おぼろげな記憶。あの色彩の壁は、いったい何だったのだろうか――その謎は、いつも藍葉の中にくすぶっていた。ある日、届け物を依頼されたという私立探偵・みどりが現れ、「以前は、大変なご迷惑をおかけしました」というメッセージと100万円を渡される。かつての誘拐事件しか心当たりのない藍葉は、みどりに誘拐事件の犯人・朱里の捜索を依頼する。当時、誘拐事件はわずか2時間で解決されていた。藍葉の思い詰めた様子と自身の好奇心からみどりは朱里を捜し始め、藍葉は”色彩に満ちた部屋”の再現を試みる。己の”個性”と向き合う藍葉と、朱里の数奇な人生を辿っていくみどりはやがて、誘拐事件の隠された真相に近づいていくが――。

 

少女時代に誘拐に会った女の子が誘拐犯を探す物語、というと最近「誘拐肯定じゃないか」というナナメ上の批判から放送取りやめになった「幸色のワンルーム」を思い出しますが、この作品は誘拐を肯定しているわけではありません。不遇の少女時代に発生した誘拐事件の中で、色彩感覚に優れた主人公が、誘拐された時の記憶に残っている色のついた部屋のことをどうにかして突き止めたい、色彩の共感覚を追い求めることがこの物語の主眼のように思えます。

 

ぼく自身、美術に詳しいわけでもないですし、デザイナーのような仕事をしたこともないですが、配色に優れたインテリアにはわくわくしますよね。モノトーンで決めた近未来感漂う機能美しかり、ヴィンテージ感溢れる名作家具の中でバランスよく散りばめられたスカンディナビアンテイストのお部屋であったり。 


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文中には、RGB値を16進トリプレット表記したウェブカラーが時折顔を出します。白は#FFFFFF、みたいなやつです。スタイルシートで遊んでいた人には馴染み深い表現方法ですが、そうでない人にとってはなかなかはてなマークですよね。0から9までの十種類の文字で表現するのが10進数、それにA,B,C,D,E,Fの6種類を加えた0からFまでの十六種類の文字で表現するのが16進数です。16進数にすることで約16百万の色を6桁で表現することができるんです。タイトルの16進数とはこのことですね。

 

藍葉の生活は星のない星空のようにモノトーンだったのだと思います。父親は不明、母親はシングルマザーの生活に耐えられず頻繁にネグレクトするようになるなど。クラスメイトと馴染めず高校を辞め、母親に距離を置かれ、上から指示された仕事を淡々とこなすだけの生活。だからこそ、誘拐された時の、正面から訴えかけてくるような色鮮やかな記憶は、しっかりと目に焼き付けられていたのでしょう。

 

誘拐犯を探すという強い好奇心は、藍葉の単調な生活に少しずつ色を与えて行きます。(そしてみどりは昔のやり方を徐々に思い出していきます。)その誘拐の物語の真相、パズルのピースがカチッとはまった様相は、配色のきれいに収まったステンドグラスのようにも、真っ暗な空に光る無数の煌めきのようにも思えます。自分のウィークポイントが個性であると認識した藍葉は、もう迷わずに生きていけるのでしょう。逸木さんの書く小説は、ミステリだけではなく、主人公の成長が描かれていて、それがまたページをめくる手を止めない一つの理由かもしれません。

  

物語の最後に、札幌が出てきたのも個人的にはとても嬉しかったです。時計台(今は改装工事中ですが)や北海道庁の赤レンガのコントラストなんて気にしたことありませんでしたけど笑 これからは#CD5E3C, #7EBEAB, #3A5B52を感じながら通勤しようと思います。

 

 

もう一つは 辻堂ゆめさんの「片想い探偵 追掛日菜子」です。辻堂さんは、(たしか)同い年ということもあり、もうこんなに作品を出してるなんてすごいなぁと思いながら、デビュー作から即買いして読み続けている作家の一人です。ただ今回の作品の主人公は辻堂さんの作品史上ダントツにぶっ飛んだキャラです。

 

片想い探偵 追掛日菜子 (幻冬舎文庫)

片想い探偵 追掛日菜子 (幻冬舎文庫)

 

 (Amazon 内容紹介より引用)

追掛日菜子は舞台俳優・力士・総理大臣などを好きになっては、相手の情報を調べ上げ追っかけるストーキング体質。しかしなぜか好きになった相手は、殺人容疑をかけられたり脅迫されたりと、毎回事件に巻き込まれてしまう。今こそ、日菜子の本領発揮! 次々と事件解決の糸口を見つけ出すが――。前代未聞、法律ギリギリアウト(?)の女子高生探偵、降臨。

  

大好きだけど近づき過ぎず、遠目から見守って応援し、お金や時間を捧げたくなる対象、彼女たちはそれを「推し」と呼びます。

主人公の日菜子は、そんな「推し」を推しすぎるストーキング体質という強い個性の持ち主。そして「推し」が巻き込まれた事件を、盗聴やSNS、不法侵入など「いや、もうアウトでしょ!」という手法を使って解決していくキャラミステリです。

ただし、さすがはこのミス出身の辻堂さん、ぶっとんだキャラだけではなく、綿密に設計されたミステリもピカイチです。

 

実は、この小説は、一般に世に発売される前に、最終ゲラの形で読ませていただくことができました。貴重な体験です。まるで編集者のような気持ちで「わき腹に刺さっただけで失血死(しかもほぼ即死)するのか」や「アウトドアナイフはおそらくMoraknivがメジャーだと思うけど小道具のナイフと似ることなんてあるのか」など、色々勘ぐってしまったのはここだけの秘密です。


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 この小説には、俳優や子役などいろんな日菜子の「推し」が出てきます。ぼくは完全に日菜子に翻弄されるお兄ちゃんの気分で読んでいました。自分にも「推し」がいるよ!って人はきっと日菜子の気持ちになりながら共感すること間違いなしです。

 

実はこれ、全部辻堂さんの体験談なんじゃ、と作家の人間性すら疑われかねないほど暴走気味な日菜子の片想い探偵っぷりをとくとご覧あれ!ということで、「推し」がいる方もそうでない方も是非読んでみてください!

 

今回はこの辺で。

多和田葉子「地球にちりばめられて」

言語は壁にもなれば、架け橋にもなる。

「言葉と歩く日記」の作者、多和田葉子さんの最新刊「地球にちりばめられて」もまた、言葉の面白さと自由さを伝える素敵な小説だった。

 

 言葉を探しに行く6人の群像劇

「地球にちりばめられて」は6人の主人公が言語を探しに旅に出る。Hiruko、クヌート、アカッシュ、ノラ、ナヌーク、そしてSusanoo。

Hirukoは留学中に故郷の島国が消滅してしまった北越の留学生。言葉もままならないままヨーロッパに取り残された彼女は、イェーテボリトロンハイム、オーデンセと大陸を移ろいながら自然と形成されていった「パンスカ」という言語を操る。「パンスカ」はデンマーク語とノルウェー語とスウェーデン語をごちゃ混ぜにした手作り言語であって、永遠に完成しない液体文法もしくは気体文法であった。

テレビ越しに見たHirukoに興味をもった、コペンハーゲン大学言語学科の院生ナヌークは彼女に会いにいく決心をする。言語にエロスを感じる言語学者の卵であるナヌークは、Hirukoの失われた故郷の言語を操る者を探すためにトリアーへと向かう。トリアー行きのバスで、性別は男性だが心は女性、赤色のサリーを身に纏うインド出身のアカッシュと出会う。

一方、ノラはカイザーテルメンにてエキゾチックな風貌のテンゾという青年に出会い一緒に暮らすようになる。テンゾはフーズムで鮨職人をしていた経歴を持ち出汁の研究をしている。そのことを知ったノラはテンゾのためにトリアーでウマミ・フェスティバルを開くことにした。このテンゾこそが、Hirukoがトリアーへ渡って探していた人物であった。しかしテンゾは開催前日にノルウェーへと姿をくらまし、料理人不在のまま迎えた当日、ノラはHiruko御一行と出会い、テンゾを探しにノルウェーへと向かうこととなる。

テンゾはそのエキゾチックな風貌から失われた国の住人として振る舞ってきたが、エスキモーにルーツをもつグリーンランド出身の留学生でナヌークという名前だった。ノルウェーのレストランでHirukoはテンゾが同郷人ではないことに気づくが、言葉は淀みなく溢れて行った。その後ナヌークを加えた言語研究御一行は、再び言語を、Susanooを探しにアルルへと向かっていく。

 

 

 言葉探しの旅の追体験

彼らは旅をする中で、言語とは何か、母国語とは何か、アイデンティティとは何かを考え進んで行く。私たちは、この小説を通じて、Hirukoとクヌートの、言語を巡る旅を追体験していく。まとまりのない自然発生的な言語が、読み進めるうちに、複雑に絡み合った一束の糸を形作っていく。小説の中でクヌートがネイティブとは何かについて考える記載がある。

 

実は僕もネイティブという言葉には以前からひっかかっていた。ネイティブは魂と言語がぴったり一致していると信じている人たちがいる。母語は生まれた時から脳に埋め込まれていると信じている人もまだいる。そんなのはもちろん、科学の隠れ蓑さえ着ていない迷信だ。それから、ネイティブの話す言葉は、文法的に正しいと思っている人もいるが、それだって「大勢の使っている言い方に忠実だ」というだけのことで、必ずしも正しいわけではない。また、ネイティブは語彙が広いと思っている人もいる。しかし日常の忙しさに追われて、決まり切ったことしか言わなくなったネイティブと、別の言語からの翻訳の苦労を重ねる中で常に新しい言葉を探している非ネイティブと、どちらの語彙が本当に広いだろうか。

(第六章 クヌートは語る(二) No. 2392-2398)

 

私たちは、人種や性別だけではなく扱う言語によって無意識にラベリングしていく。ネイティブとは先天的な者であり、日本語がタドタドしければそれは日本人ではないというように。果たしてそうだろうか、とこの小説を読み終わった私は考える。日本人以外の日本語話者もいれば、日本人で日本語以外の話者もいる。言葉遣いや礼儀、マナーはあるけれど、「こういう時は、こう言わなければならない」という凝り固まったものではなくて、もっと流動的でいい。完璧を目指さなくていいし、完璧な言語など存在しない。

 

「何語を勉強する」と決めてから、教科書を使ってその言語を勉強するのではなく、まわりの人間たちの声に耳をすまして、音を拾い、音を反復し、規則性をリズムとして体感しながら声を発しているうちにそれが一つの新しい言語になっていくのだ。

(第二章 Hirukoは語る No.405-407)

 

「〇〇語」を学ぶのではなく、コミュニケーションを取っているうちに言語化されていく。そもそも、言語とは元々そのように形作られたものたったはずであり、英語は歴史の中で共通語と同意されて認識された世界言語に過ぎない。もし、英語が本当の意味での世界言語であれば、私たちは日常で英語を扱うはずである。

 

音が言葉となる瞬間を味わう

言葉は対応する意味を持って初めて言葉となる。ただ口から発されていた意味を持たない音が、何かに繋がった瞬間、意味を持ち具現化される。

「Tenzoって典座のことだったのね」とHirukoがつぶやいた。クヌートが心から愉快そうに笑った。 「君の中には今二つの言語が見えているんだね。ところがそれが音になって外に出た途端、僕らの耳の中で一つの言語になってしまう。パンダってパンダのことだったのね、と言う人がいたら、君だって笑ってしまうだろう。」 

(第三章 アカッシュは語る No.837-842)

 

テンゾが典座だと気付いたHirukoは博識だ。典座とは禅宗における職位の一つであるそうだが、ここでHirukoが典座について触れていなければ、私にとってテンゾはテンゾのままで終わっていたのだと思う。テンゾという響きに意味があること自体を知らないからである。現代でも新しい言葉が次々と生まれていくが、言葉もまた言語より狭い空間において合意形成される。ネット言語やJK語だってその一つであり、その言葉の枠内にいる人々にとっては当たり前に意味を持つ言葉が、枠外の人々にとって何のこっちゃ、ということは日常的にあることである。クヌートには同じ音に聞こえるが、Hirukoはそこに何かが発見あったんだね、と気づくクヌートも流石だ。

 

ナヌークはきょとんとしていた。言葉の洪水は、相手に理解されなくても気持ちよく溢れ続けた。 「でもね、あなたに会えて本当によかった。全部、理解してくれなくてもいい。こうしてしゃべっている言葉が全く無意味な音の連鎖ではなくて、ちゃんとした言語だっていう実感が湧いてきた。それもあなたのおかげ。ナヌーク、あなたのこと、ノラに話してもいい?」

(第六章 Hirukoは語る(二) No. 2010-2013)

 

 ナヌークは失われた国の人でないし、失われた国の言語が堪能というわけでもなかった。ただ、たとえ文章の物語の意味が分からなくても、たとえHirukoの口から発される音のほとんどが言葉として認識されていなくても、少しの言葉が通じるだけで言語は息を吹き返す。言葉の洪水が相手に理解されなかったとしても、飛沫が口に入れば言葉は通ずるのだ。

ただ、ナヌークが懸命に努力していたことには違いない。その生い立ちや風貌から覚えざるを得なかった、というところもないわけではないが、ナヌークが真剣にその失われた国の言語を積み重ねて行ったからこそHirukoの喜びが生まれたのである。

 

語学を勉強することで第二のアイデンティティが獲得できると思うと愉快でならない。

(第五章 テンゾ/ナヌークは語る No. 1598-1599)

 

ナヌークにとって言語を学ぶというのは、音を言葉にするだけではなく、新しい自我を手に入れることでもあった。エスキモーであるナヌークであると同時に、失われた国の出身者であるテンゾであり続けるための命綱が言語を学ぶことであった。だからこそすぐにナヌークであることをノラに打ち明けられなかったわけであるけれども、言語を習得することは、新しい世界で新しい自分でいられるチャンスなのである。

 

 

言葉はもっと自由でいい

 彼らも、私たちも、地球にちりばめられている。自然的・言語的・文化的国境があって、国がある。国内からパスポートを持って、ビザをもって、海外旅行に出かける。でも私たちは、〇〇人である前に、地球人なのだ。

 

よく考えてみると地球人なのだから、地上に違法滞在するということはありえない。

(第二章 Hirukoは語る No.442-443)

 

インターネットの発展によって、私たちは文章を瞬時にやりとりできるようになった。発展は続いて、今では写真や動画をリアルタイムでやりとりできる。パスポートがなくても海外にいる気分になることも、様々な国の人たちと会議することも可能となった。近い将来、リアルタイム自動翻訳が精緻化すれば、言葉が通じなくても言葉が通じる、そんな世界が訪れるのだろう。私たちはどんどん地球人化していくし、していける。お互い尊重し合うことが一層大事になるが、皆が繋がれるのは素晴らしいことだ。

 

私はある人がどの国の出身かということはできれば全く考えたくない。国にこだわるなんて自分に自信のない人のすることだと思っていた。でも考えまいとすればするほど、誰がどこの国の人かということばかり考えてしまう。「どこどこから来ました」という過去。ある国で初等教育を受けたという過去。植民地という過去。人に名前を訊くのはこれから友達になる未来のためであるはずなのに、相手の過去を知ろうとして名前を訊く私は本当にどうかしている。

(第四章 ノラは語る No.1015-1019)

 

地球人化すれば名前だって自由になる。〇〇人はこういう名前が多い、ということにとらわれなくなる。植民地だって教育だって、様々なバックグラウンドが綯交ぜになれば、忘れてはならない過去を継承することは大事であるとしても、不必要に過去にとらわれる必要はなくなるのだ。

 

終止符の後にはこれまで見たこともないような文章が続くはずで、それは文章とは呼べない何かかもしれない。なぜなら、どこまで歩いても終止符が来ないのだから。終止符の存在しない言語だってあるに違いない。終わりのない旅。主語のない旅。誰が始め、誰が続けるのか分からないような旅。遠い国。形容詞に過去形があって、前置詞が後置されるような遠い国へでかけてみたい。

(第六章 クヌートは語る(二) No. 2197-2201)

 

そして、翻訳の精度が上がれば、自分語翻訳、すなわちオリジナル語の作成も可能になるかもしれない。現在のGoogle翻訳は、英語から日本語に翻訳したものを英語に再翻訳すると違う言葉となる点において、言語の不可逆変換の状態にあると言えるが、もしか逆変換が可能となれば、第2のエスペラント語といえる真のグローバル言語が生まれる可能性もあるし、また狭いコミュニティにおいて多種多様なローカル言語が生まれる可能性もある。言葉はもっと自由で良いのだ。そう思える素晴らしい作品だった。

 

 

ちなみに、多和田葉子さんはドイツで生活されていて、その生活における日常のやりとりをエッセイにした「言葉と歩く日記」、こちらも大変面白いです。なるほどと思ったり、くすっと笑ったり、言葉遊びが楽しくなること間違いありませんので是非ご一読ください。

 

※引用元は、Kindle paperwhiteでの文字サイズを一番小さくした上でのNo.を引用ページの一意性を示すために記載している。

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

 

 

言葉と歩く日記 (岩波新書)

言葉と歩く日記 (岩波新書)

 

 

ダフネ・デュ・モーリア「レベッカ」(新潮文庫)

レベッカ」はゴシック・ロマンスの金字塔と呼ばれる作品である。

 

ゴシック・ロマンスとは、人の手があまり介在しない、そこに存在する情景や状態、また超自然的現象が、読者に不気味さを感じさせる、現代のホラー小説やSF小説にもつながる荒涼的な作風である。ガストン・ルルーの「オペラ座の怪人」やメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」などが、このゴシック・ロマンスの系譜であると言われている。個人的には、ヘンリー・ジェイムスの「ねじの回転」も、この系譜に入れておきたい。

 

この本のタイトルである「レベッカ」は、主人公の名前では無い。主人公の名前は最後まで明かされず、「わたし」の一人称視点で物語は進んでいく。

ヴァン・ホッパー夫人の付き人としてモンテカルロのホテルで過ごす「わたし」は、マキシミリアン・デ・ウィンターに見初められ、結婚を申し込まれる。ヴァン・ホッパー夫人の元を離れ、マキシムの保有する邸宅マンダレーへと迎え入れられる「わたし」、しかしそこで待っていたのは、難しい家政婦頭のダンヴァーズと、海難事故で亡くなった前妻のレベッカの存在であった…。

 

物語の前半は、環境も生活様式も言葉遣いも何もかも変わってしまった「わたし」が、亡き前妻にして、類まれなる美貌・行動力・その他全てを兼ね備えていたレベッカの影に苦しむ様子が描かれている。マキシムは本当に「わたし」を愛しているのだろうか、レベッカのことが忘れられないのでは無いだろうか、と戸惑う「わたし」。そんな「わたし」に対して、ダンヴァーズさんはことあるごとに、(元)ミス・デ・ウィンターはこんなに素晴らしかったと、嫌みたらしく話しかける。マンダレーのいたるところに残るレベッカの存在。それが仮装舞踏会の翌日、マンダレー近くの海岸に船が座礁するところから、物語は一変する。

 

読者にとっては、物語の前半は見えない敵レベッカの爪痕に気味の悪さを感じるものであった。それが、物語の後半では、「わたし」にとっても読者にとってもレベッカはとるに足らないもののような存在へと変化していく。一方で存在感が増す「わたし」。彼女の心情はこの文章に全てが含まれているように感じられる。

 

マキシムはわたしの前に立って、手を差し出した。
「軽蔑してるだろう?きみには僕の屈辱、底しれない嫌悪と汚辱がわかるはずもない」
わたしは何もいわずにマキシムの手を自分の胸に押しあてた。マキシムの屈辱なんて気にならなかった。聞かされたことの悉くがどうでもよかった。わたしはたったひとつのこと、それだけにすがりついて、何度も心の中で繰り返していた。
マキシムはレベッカを愛していない。ただの、ただの一度も愛したことはない。一瞬の幸せも分かち合ったことはない。
マキシムはまだ話している。わたしは聞いていたが、なんの意味もなかった。わたしにはどうでもよいことだった。

 

レベッカ下巻P128-P129より)

 

マキシムが犯した過去の罪を「わたし」に告白するシーン。マキシムは懺悔しながら、こんなことをしでかした私を君が好きになるわけがない、と思っている。しかし「わたし」にとってはマキシムが犯した罪などどうでも良くて、ただひとつ、レベッカを愛していなかった。そして「わたし」は愛されている。ただその一点こそが、彼女の求めていた言葉であり、彼女は羽の生えたように心が軽くなる。

 

マキシムが犯した罪、そしてそれに対する責任の所在などは物語を見て確かめれば良いが、後半の見所はやはり「わたし」の小気味悪さなのだろう。レベッカというタイトルであったにもかかわらず、もう物語の端々からもレベッカの存在は感じられない。そこに存在するのは「わたし」、「わたし」、「わたし」なのである。

 

そして読者は「わたし」の存在を色濃く認識しているにも関わらず、頭の中に「わたし」を思い浮かべることはできない。それこそこの物語がゴシック・ロマンスたる所以なのかも知れない。

 

物語が終わった後、読者は皆第1章、第2章を読み返す。そしてあの一文目を再び目にするのである。

「ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た。」

 - Last night I dreamt I went to Manderley again.

 

レベッカ〈上〉 (新潮文庫)

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レベッカ〈下〉 (新潮文庫)

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